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福田赳夫、あるいは”Cool Head, but Warm Heart”(1)(2016)

福田赳夫、あるいは”Cool Head, but Warm Heart”
Saven Satpw
Sep. 22, 2016

「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますねまあいいでしょう!きょうは敗軍の将、兵を『語る』でいきますから。へい、へい、へい」。
福田赳夫

1 田中角栄のライバル
 最近、角栄ブームが盛り上がっています。これまでも何度か流行が起きていますが、彼の最大のライバルだった大福田赳夫にはそういった現象はありません。ただ、70年代の政権の中で福田内閣が最も安定し、成果を上げています。

 特によく知られているのは1977年にマニラで公表した「福田ドクトリン」でしょう。それは三点に要約できます。第1は、日本が軍事大国とならず、世界の平和と繁栄に貢献することです。第2に、ASEAN各国と心と心の触れあう信頼関係を構築することです。第3として、日本とASEANは対等なパートナーで、我が国はその平和と繁栄に寄与することです。福田ドクトリンは全方位平和外交宣言と言えます。その後の対東アジア政治・経済政策の方針となっています。

 言うまでもなく、福田内閣の実績は派閥抗争が沈静化していたことが大きいでしょう。2年後に総裁の座を譲るという大平正芳との密約が休戦協定となり、挙党体制が形成されます。抗争に資源をとられなかったため、比較的、福田内閣は統治に集中できています。

 その派閥抗争の中心人物が田中角栄と福田赳夫です。両者の競争と牽制は角福戦争と呼ばれています。田中角栄は戦前であれば代議士になれなかったでしょう。福田も同様です。二人とも、戦後という時代によって政界入りしています。ただし、その治癒は正反対です。田中は最終学歴が高騰小学校で、代議真になるには低すぎます。一方、福田はエリート中のエリートで、学歴が高すぎるのです。

 角福戦争は真にドラマティックです。作歴のみならず、田中と福田があまりに好対照だったからです。田中が「まあ~、このお~」や「よっしゃ」など口癖を真似されたのに対し、福田は印象的なフレーズを生み出し世間異流通させています。「昭和元禄」や「狂乱物価」、「日本経済は全治3年」、「人名は地球より重い」、「天の声にも時には変な声がある」など今でも語られています。ひょうひょうとした表情で、軽い高音でつぶやく福田は、汗をかきながら、だみ声でしゃべりまくる田中と対照的です。

 かつての自民党では田中を始めとする党人派と福田のような官僚派が切磋琢磨し、総裁の座を争ったものです。角福戦争はこの党人派対官僚派も含んでいます。しかし、宮沢喜一以降、官僚派の総裁が誕生していません。多くの点で自民党は活力を失い、堕落が止まりません。

 角福戦争は70年代の自民党のダイナミズムです。競争と牽制が政治家を育成しています。派閥抗争ではエリートの福田がたたき上げの田中に負けるというところがいい塩梅です。たたき上げにエリートが屈する光景は庶民からすれば留飲物です。けれども、そんな時にも福田はユーモアを忘れず話をしています。知性とは自らへの反省的態度をいかなる時にも貫くものだと彼は示しています。敗北に際してその人の本性が現われます。それは政治家のみならず、国民への戒めでもあるのです。

2 エリート中のエリート
 福田は、1905年1月4日、群馬県群馬郡金古町足門(現高崎市足門町)元金古町長の福田善治二男として生まれています。日露戦争において日本軍が旅順入城をした翌日に生まれたため、「赳夫」と命名されます。田中角栄が1918年生まれですから、福田は一回り以上年上です。ちなみに、志村喬やヘンリー・フォンダが福田と同じ1905年に生まれています。

 福田は、幼い頃より神藤の誉れ高く、一高=東大を経て、高等文官試験を首席で合格、大蔵省に入省します。彼はただの秀才ではなく、秀才中の秀才です。入省後、1年も経たないうちに、ロンドン軍縮条約の交渉団に参加しています。大蔵省でも最も将来を期待され、官界のトップに間違いなく就くと衆目が一致する人材です。

 ところが、戦後の1948年、昭電疑獄が発覚します。その際、大蔵省の主計局長だったため、収賄容疑で逮捕されます。無罪になったものの、もう官界に居場所はありません。そこで、福田は政界に転出します。1952年、無所属で群馬三区から立候補して当選します。

 大蔵官僚から転身した政治家はたいてい宏池会に所属します。領袖の池田隼人を始め大平正芳や宮澤喜一などが思い浮かびます。戦前、帝大出は官僚、私学出は政党政治家と教育キャリアが分かれています。けれども、戦後、長く首相を務めた吉田茂は既得権益者に縛られずに治を行を進めるため、政策に通じた官僚を政治家に転出させます。吉田の自由党には元大蔵官僚の政治家の一人を除いて所属します。

 その一人が無所属の福田です。彼は政治家のキャリアの前半は独立独歩の姿勢を示しています。自民党が結成されると、元大蔵官僚の議員は青の代表格だった池田勇人の派閥に加わります。一方、福田も入党しますが、岸信介の派閥に参加します。岸派が分裂すると、反派閥を掲げ「党風刷新連盟」を結成します。これが後に清話会に発展します。

 福田は近代合理主義的な考えの持ち主です。彼にとって親分子分の義理人情に彩派閥はられた前近代的集団でしかありません。けれども、党内基盤を強化するためには。自分を支持してくれる議員が必要です。政治は数です。彼は反派閥の派閥を形成していきます。

 派閥を批判する福田ですから、自派の運営に必ずしも熱心ではありません。彼にとってシンパはあくまで政治的信条・理念を共有するグループです。政治家だろうと人間関係は生身のものと捉える田中角栄ほどの強力な軍団を育てられません。派閥抗争が始まると、福田は田中に常に敗北を喫します。

 5・15事件以降、政党政治家は統治に加わることできません。実質的にそれを担ってきたのが官僚です。戦後、政党が統治を担当する機会を回復しましたが、経験が不足しています。そこで自民党は官僚出身の政治家にそのノウハウを党人派にも伝授する場が設けます。それが政調会です。福田は、1958年、その会長に就任します。その後農林大臣を経て60年、池田内閣発足に際し、その職に復帰します。

 ところが、福田は池田の高度経済成長政策を批判します。彼は戦後を席巻したケインズ主義ではなく、均衡財政論者です。そのため、彼は、オイル・ショック後のスタグフレーション対策に力を発揮することになります。しかし、反池田により福田は政調会長のポストを外され。党内において非主流派に置かれます。

 池田とは対立した福田ですけれど、党内でも将来を嘱望され、存在感を高めていきます。福田に最も期待を寄せていた政治家の一人が佐藤栄作です。首相である彼は自分の後継者に福田を指名しようと考えています。佐藤の意向を知り、福田もその気になります。

 しかし、ポスト佐藤を狙う政治家は他にもいます。その中で最も有力なのが田中角栄です。田中は佐藤派に属しています。派閥の領袖であることを思えば、佐藤は自派の田中を推すと考えてしまいます。他派閥の福田を自分の後継に想定するのはいささか奇妙です。

 政治家の師弟関係は派閥だけで割り切れるものではありません。吉田茂を師匠と仰ぐ池田勇人と佐藤栄作がそれぞれ派閥を結成します。二人は支障を同じにしていますが、ライバルです。その際、池田は田中が自分の下に来ると思っていましたが、諸般の事情から彼は佐藤派に加わります。実際、田中は保守本流の考えを共有しています。そのため、田中は現住所佐藤派本籍池田派と見なされています。

 政治信条から考えれば、福田は佐藤派に属していてもおかしくありません。田中よりも、福田の方が佐藤に近いでしょう。けれども、福田は反派閥ですから、佐藤派に加われるはずがありません。

 田中は佐藤が後継者に福田を想定していることを知っています。そこで、田中は、彼の政権末期に、佐藤派の大半を引き連れ新たな派閥を結成します。これにより佐藤は相殺でありながら、自民党での権力基盤を失い、福田を後継指名する力を失います。佐藤政権の後に福田ではなく、田中が首相に就くことになります。

 ところで、田中と共に佐藤派を離れた議員位の中に竹下登がいます。実は、彼は佐藤を師匠として慕っています。竹下は、首相在任中、佐藤の邸宅を借り、自らを彼の後継者として位置づけています。実際、竹下は「待ちの政治家」や「人事の佐藤」、「淡島に特ダネなし」と呼ばれた佐藤と政治スタイルが似ています。

 竹下は自らの後継者と見ていた小渕恵三にもこの系譜を引き継いでもらいたいと考えています。しかし、小渕は竹下から旧佐藤邸の使用を勧められても断っています。小渕にはその継承に意義を見出していないのです。

 その竹下と共に田中派から離れた小沢一郎にとって師匠は田中です。竹下ではありません。小沢は田中を「おやじ」と呼んで敬愛しています。政治家は将来を予想して行動しますが、指定意識は必ずしもそれと一致しません。

 池田は1899年、佐藤は1901年にそれぞれ生まれています。福田は彼らと年齢が近いので、師弟関係になりません。先輩後輩くらいでしょう。年齢差からすれば、福田が佐藤の後釜でおかしくありません。しかし、福田より一回り以上若い田中が先に総理の座を手にするのです。

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