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初めての防空識別圏(2013)

初めての防空識別圏
Saven Satow
Dect. 02, 2013

「慣れぬ米商いより慣れた糠商い」。

 戦前の日本軍の組織は軍政と軍令に大きく分けられる。前者は軍の行政を指し、陸軍省と海軍省が担当する。軍は政治から独立しているのが原則であるけれども、予算要求など関わらざるを得ない場合もある。それが軍政である。後者は動員・作戦計画を司り、陸軍参謀本部と海軍軍令部がその機関である。軍令には政治介入が認められず、軍の専権である。

 今回問題となっている中国の公表した「防空識別圏(Air Defense Identification Zone: ADIZ)は、戦前の用語を用いれば、軍令に属する。現場の判断で決める事項である。中国であっても、政府は干渉できない。

 防空識別圏は領空ではなく、スクランブル発進するための目安である。圏内に公空が入ったり、他国の領空が含まれたりすることもある。国境を接している国同士では識別圏が重なることは珍しくない。軍内部での実用上の概念であるので、国際的な取り決めはない。領空と異なり、国家主権は及ばない。そのため、軍は民間航空機の飛行プランの提出をお願いとして要求できるにとどまる。公空を飛ぶことを軍が統制できるはずもない。

 これまで中国は防空識別圏を設定していない、今回初めての指定である。日本を含め多くの国が行っているのだから、それ自体を非難すべきではない。

 ただ、中国のADIZは、初めてなので不慣れなのか、国際的な常識からずれている。批判するのはこの点である。米軍の訓練空域が含まれているのが国際的常識の逸脱の一例である。13年11月29日付『朝日新聞』の「日米制服組、冷静な反応」によると、日本がアメリカに提供している沖縄北部訓練空域の一部と尖閣諸島の 赤尾嶼村爆撃場・黄尾嶼村爆撃場が入っている。長年に亘って軍事訓練に使ってきた地域を突然圏内に入れられては米国としても批判せざるを得ない。万が一のこともあるので、米政府は民間航空会社には別の対応を示している。

 また、中国の公表した識別圏が広すぎて、全域をカバーできると思えないと自衛隊幹部は見ている。中国大陸からADIZの東端までの距離が約500kmもあり、通常の地上レーダーでは探知が難しい。これを維持するためには、強力なレーダーを装備した早期警戒機を常時飛行させる必要がある。中国のADIZは実効性に乏しいというわけだ。他国の防衛関係者から合理性がないと思われたら、張子の虎と見透かされる。加えて、できないことを命ぜられ続けると、「またか」と手順や作業が形骸化し、真に危険な事態を現場が見逃してしまいかねない。

 なぜこんな設定をしたのか理解に苦しむ。国際的に支持されるわけでも、実効性があるわけでもない。一つ考えられることは、現場の国際感覚の乏しさだ。日本や韓国などは他国と現代的な軍事訓練・演習を行っている。それを通じて国際的な常識が身についてくる。しかし、中国はその経験がまだ少ない。そのため、国際感覚が身についていない可能性がある。

 不慣れの根拠は中国のADIZに関するアナウンスメントの文体にも求められる。

 次のように助動詞の”must”が使われている。

4. Logo identification. Aircraft flying in the East China Sea Air Defense Identification Zone must clearly mark their nationalities and the logo of their registration identification in accordance with related international treaties.

4ロゴ確認 東シナ海ADIZを飛行する航空機は国籍と国際条約に則ったロゴを明示しなければならない、

 “must”には「~しなければならない」の中で最も強いニュアンスがある。領空ならともかく、ADIZに関して民間航空機のフライト・プランの提出はあくまでリクエストなので、一般的にこの助動詞が使われることはない。他の箇所にも使用されており、ADIZにふさわしい文体ではない。

 類似した表現に”have to”があるが、こちらには第三者的意識がある。教師が生徒に「もっと勉強をしなさい(You have to study more)」という際に用いられる。一方、”must”は当事者意識があり、親が子どもに「もっと勉強をしなさい(You must study more)」と叱る時に使う。米大統領が国民向けテレビ演説で政府の決意を訴える際に使用するのは、もちろん、”must”である。

 国際標準を理解し、それを踏まえることが今日の国家には求められる。そこから逸脱した国家には、国際社会はそれを指摘し、改善を働き掛ける。ネオコン後の世界はそうなりつつある。

 今回の件をめぐって北京の意図を深読みする必要はない。これは軍の専権事項であり、政府が干渉できるはずもない。国際的反発を浴びた習近平政権とすれば、軍に恥をかかせられたというのが正直なところかもしれない。軍の独走であるかはともかく、一旦発表したのだから、中国政府としてもそれに沿った姿勢をとるだろう。

 日本の市民は冷静に対応した方がよい。特定秘密保護法をもくろむ政府に利用されるからだけではない。頭に血を上らせて非難すると、国際的な常識を知らないと自分たちも世界から笑いものになってしまうだろう。
〈了〉
参照文献
Ministry of National Defense the People’s Republic of China, “Announcement of the Aircraft Identification Rules for the East China Sea Air Defense Identification Zone of the P.R.C.”, Nov, 23. 2013
http://eng.mod.gov.cn/Press/2013-11/23/content_4476143.htm

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