理研のアイデンティティとは(2014)
理研のアイデンティティとは
Saven Satow
Apr. 10, 2014
「人は誰でも自分の仕事の成果を気にするものであるが、周囲から『そんな仕事は、余り有意義なものではない』と無視されると、自分の仕事を評価してもらいたいという自尊心と功名心が憤然と湧き起こって、仕事に励んで成果を挙げようとするものである」。
大河内正敏
STAP細胞事件によって、理化学研究所についての解説をマスメディアがしばしば行っている。スパコンをめぐる事業仕分けでその名を聞いたことはあっても、これまでいかなる組織であるのか一般には必ずしも認知されていない。
ビタミンA製剤を代表にこれまでの成果を聞くと、そういうことをしていたのかと理解できるけれども、この状況は研究所としてはいささか珍しい。1910年に設立された米ベル研究所は現在でも世界的に最も著名なものの一つであり、UNIXやC言語、無線LANを始めその成果は枚挙にいとまない。ベル研と言えば、電磁気・電子の科学技術の研究・開発の機関と容易に思い浮かぶ。研究所としてのアイデンティティが明確で、そのイメージが広く浸透している。
理化学研究所はGHQにより解体された15財閥の一つ「理研」と関連していた機関である。1920年代に入り、新興重化学工業が対等化する。電機や電線、合成硫安、レーヨン、自動車などの新工業を積極的に進めた経営主体は三井を始めとする既成財閥ではない。新興コンツェルンである。その企業集団には、日産や日窒、日曹、森と並んで、理研が含まれている。これらは既存財閥の既得権益の隙間をついて成長した新勢力である。
理研は、1928年、理化学研究所第3代所長大河内正敏によって設立された産業団である。理化学研究所は物理・化学の研究およびその応用を目的とする産学協同の民間機関で、発明・特許を産業化しようとする。第一次世界大戦当時の国内産業界の要望とアカデミズムの要請に基づき、政府補助を得て、1917年に創立されている。理研は金属と機械工業を中心に60以上の企業を傘下にするまでに成長し、戦前の財閥の中でも、非常に個性的である。
第一次世界大戦は日本に産業構造の変化を促す。重化学工業比率が大戦前の1910年には21.3%だったのに対し、15年に29.4%、20年では32.8%と上昇している。ところが、電機を除くと、国内産業は国際競争力が弱い。電機は早くから外資との提携・合弁を進めてきたため、国際水準を有している。それに比べて、造船業や工作機械工業などは優秀な外国製品に歯が立たない。国際競争力のある重化学工業の育成が官民共に目指す目標とされている。
1970年代以降、日本の工作機械が世界を席巻するが、これにはエレクトロニクスの影響が大きい。戦後、工作機械に電子制御が導入される。この分野は世界的に技術の蓄積があまりなかったので、後発の日本はそれに力を入れて国際競争力を高めている。現在でも、メカニックスだけなら、日本はドイツなどの欧州勢にかなわないのが実情である。
しかも、この新興重化学工業は高度な専門的知識を必要とする。蒸気機関はアマチュアによって発達したが、この新たな産業はアカデミズムの知見に拠らなければ成長しきれない。電気や化学の分野は、西洋の歴史を見ても、大学での研究によって進歩している。
新産業は科学と技術の融合に基づいている。両者はそれぞれ独立して発展してきている。ルネサンス期のように距離が縮まったころもあったけれども、科学は知識人、技術は職人の間で継承されている。しかし、19世紀後半に化学や電気の技術が進展すると、その課題に科学を適用させることが不可欠となる。発電した電力を顧客に同時に配電するための制御・調整には物理や数学の知識が必要である。科学に基礎を置く技術、いわゆる科学技術が求められる。
20世紀を迎える頃から、アメリカで企業が研究所を設立し始める。1900年のGEを皮切りに、ダウ・ケミカル、デュポン、グッドイヤー、AT&T、コダックらが10年あまりの間に研究所を次々と創立する。いずれも電気や化学の関連企業である。厳しい競争で勝ち抜くためには優秀な人材が必要だ。好待遇に誘われ、大学の研究者が次第に入所してくる。現代の多くの科学技術が企業の研究所から生まれてくる状況はこうして形成されていく。
理研は国内事情のみならず、世界的な産業をめぐる変化に対応して誕生したと考える必要がある。ただ、通常は企業が研究を設置するが、その順番が逆になっている。企業の事業内容の縛りが弱いので、扱う対象領域が拡散する傾向になる。
日本でも新産業は高等教育機関の出身者にとっての新たな就職口である。理系の学生の中で大学のポストを得られるのは限られている。「末は博士か大臣か」と讃えられても、残ったところで研究費を含めた待遇が十分であるわけでもない。
理研を始めとする新興コンツェルンは産学いずれのニーズにも応えている。そのため、既存財閥と比べて、いくつかの特徴がある。まず、主導的経営者が高学歴の技術者である。理研の大河内正敏は東京帝大工学部を卒業している。次に、傘下企業は技術的関連が高い。重化学工業中心のコンツェルンであって、他業種を内部に入れるケースは珍しい。さらに、後発であるため、既成財閥の既得権が及んでいない朝鮮半島や満州に積極的に進出している。
この特徴は従前の財閥にない強みにもなるが、弱みにもなり得る。専門的コンツェルンであるため、既存財閥のような内部資金に乏しく、市場や銀行から調達せざるを得ず、財務基盤が脆弱である。また、戦時体制が進展すると、外地に対する軍部・政府の干渉が強まり、資金難だけでなく、企業のマネジメントも弱まり、コンツェルンの機能不全に陥ってしまう。
戦前の理研の成長は15年戦争の時期と重なる。設立の経緯もあり、理研は政府との関係が濃密で、科学者の戦争責任を問わなければならないのではないかと思えるほどだ。一例をあげると、1941年から、戦後第4代所長に就任する仁科芳雄が中心となって理化学研究所は原子爆弾開発を進めている。原爆を実用化するための電力と組織力が当時の日本にはなかったので、不可能な試みだったろうが、手を出したことは責められるべきだ。
20世紀の科学技術は企業の研究所だけでなく、国家との結びつきも強めている。核・宇宙開発のようなビッグ・サイエンスがその典型である。戦前の理化学研究所はその両方面と関わっている。確かに、国家総動員体制が敷かれたのだから、日本の企業の多くがそれに組みこまれている。ただ、原爆開発には核物理学という基礎研究が不可欠である。理化学研究所を通じて技術者だけでなく、科学者も国家に絡めとられたことは一般的な企業と違う。
1945年、GHQが財閥解体の指令を打ち出す。理研も15財閥の一つとして対象になっている。解体したけれども、理研光学(現リコー)の市村清が三愛会を結成、理研グループが形成される。今日、非常に幅広い企業が加わっており、コカコーラウェストのように、意外な名前を目にして驚くことがある。また、日本勧業銀行や日本興業銀行から融資を受けるなど戦後になっても政府との関係の強さが残っている。
理化学研究所は、株式会社として再出発した後、紆余曲折を経て、現在、独立行政法人として認可されている。3400人の職員とほぼ同数の研究者を抱え、2013年度の予算は844億円である。幅広い分野の研究とその応用に取り組んでいることは確かであるが、率直に言って、これほどの規模の組織でありながら、アイデンティティをイメージしにくい。現代の科学技術をめぐるグローバルな環境を見渡す時、この現状は必ずしも好ましくない。
国際的な名声を確立した研究所はアイデンティティが明確である。フランスのパスツール研究所なら生物・医学、スイスのCERNなら素粒子物理学、アメリカのサンタフェ研究所なら非線形科学など中心的分野がすぐに思い浮かぶ。そこに参加していた研究者に対しても、実力と専門がだいたい想像できる。組織の方向が明瞭だから、形態や人員、予算、評価、成果の社会的還元などの方法と内容もわかりやすくできる。
他方、理研には、歴史があるにもかかわらず、そうした明瞭なアイデンティティがない。歴史はあるが、先に挙げた研究所と違い、伝統がないとも言える。STAP細胞事件によってメディアが理研についてあれこれ解説してくれるが、帝国主義的に肥大化した漠然とした印象がある。組織として向かうべき方向がはっきりしていれば、今回問われた諸問題のいくつかは起きなかった可能性もある。
はっきりしているのは、理化学研究所の6人の理事全員が日本人、そのうち2人が文科省、1人が内閣府の経験者ということだ。天下りの内向きな組織が最先端の研究を担えるとはそもそも思えない。アイデンティティを国内外に明確に示すことが理研にとって改善策だろう。
〈了〉
参照文献
中島秀人、『社会の中の科学』、放送大学教育振興会、2008年
宮本又郎、『日本経済史』、放送大学教育振興会、2008年