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梶井基次郎、あるいは冴えかえった色彩(1)(1993)

梶井基次郎、あるいは冴えかえった色彩
Saven Satow
Oct. 31, 1993

「色にまつわる概念の論理は、一見するより遥かに込み入っている」。
ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『色について』

1 マイナー文学のために
 梶井基次郎の作品は、日本近代文学において、奇妙な存在感を漂わせている。彼は夏目漱石や芥川龍之介、谷崎潤一郎といった文豪と違い、新興芸術派の一人にすぎない。1901年に生まれ、32年に死んだ梶井は、その長くない生涯の中で、さして多くない分量の短編小説と詩、戯曲などを残しただけで、生前、一冊のまとまった本を刊行することはなかったし、また、発表された作品とほぼ同量の未発表及び未完成の作品を残しただけであるから、そうした処遇を受けているのも、当然と言えば、当然であろう。

 にもかかわらず、梶井のいくつかの作品--『檸檬』(1925)や『城のある町にて』(1925)、『桜の樹の下には』(1928)--は、驚くほど、一般的な知名度が高いとともに、それらの作品に限らず、どれもが、まさに、梶井的と呼ぶしかない作品だ。梶井は大作家ではなかったが、確かに、名作家である。

 ところが、梶井の作品に関する読解そのものも、これまで十分になされてきたとは言いがたい。死の直前に書いた『のんきな患者』(一九三二)において、視点を内部から外部へと転換し、彼は社会的な問題への関心を抱き始めたと言われているが、この区別は十分な説得力を持つものではない。作家が視点や主題を変えるとき、文体や構成、用語も変化せざるを得ないだろう。例えば、森鴎外において、『舞姫』を始めとするな同時代的作品と『大塩平八郎』のような歴史小説との間には、文体からも、構成からも、大きな断絶が存在している。ところが、文体や構成、用語などから見てみると、『檸檬』から『のんきな患者』まで、なるほど『のんきな患者』は『檸檬』に見られる形象化といった特徴が稀薄になっているとしても、梶井の作品群には大きな変化は見られない。従って、『のんきな患者』における梶井の内部から外部志向への転回は不十分な読解によって導き出された誤認と言うほかない。

 しかし、この転回の不在を私小説特有の発展性の欠如--志賀直哉が作家としてデビュー作から『暗夜行路』まで発展しなかったという事態--と見なしてしまうことは、早計である。彼の作品はそうした私小説的な世界と異なっており、梶井は『檸檬』において、作家として、もうすでに精神的に成熟している。むしろ、梶井は作家として本格的なデビュー作であると同時に代表作でもある『檸檬』においてすでに完成していたと言わねばならない。

 梶井の小説が私小説と異質であるのは、「業苦の人」と呼ばれた嘉村磯多のものとを読み比べてみれば、明瞭となる。嘉村の『業苦』と梶井の『檸檬』の一節を比較してみよう。

 圭一郎は、父にも、妹にも、誰に対しても告白のできぬ多くの懺悔を、痛みを忍んで我とわが心の底に迫って行った。

 結局、故郷への手紙は思わせぶりな空疎な文字の羅列に過ぎなかった。けれどもいっこくな我儘者の圭一郎にかしずいてさぞさぞ気苦労の多いことであろうとの慰めの言葉を一言千登世あてに書き送ってもらいたいということだけはいつものようにくとく、二伸としてまで書き加えた。
 圭一郎が父に要求する千登世へのいたわりの手紙は彼が請い求めるまでもなくこれまで一度ならず二度も三度も父はよこしたのであった。父は最初から二人を別れさせようとする意思は微塵も見せなかった。別れさしたところで今さらおめおめ村に帰って自家の閾がまたげる圭一郎でもあるまいし、同時にまた千登世に対して犯したわが子の罪を父は十分感じていることも否めなかった。鼎の湯のように沸き立つ口宜しい近郷近在の評判やとりどりの沙汰に父は面目ながってしばらくは一室に幽閉していていたらしいがその間もしばしば便りを送って来た。さまざまの愚痴もならべられてあるにしても、どうか二人が仲よく暮らしてくれとかお互いに身体さえ大切にして長生きしていればいつか再会がかなうだろうとか、その時はつもる話をしようとか書いてあった。そしてきまったように「何もインネンインガとあきらめおり候」として終りが結んであった。時には思いがけなく隣村の郵便局の消印で為替が封入してあることもたびたびだった。村の郵便局からでは顔馴染の局員の手前を恥じて、杖に縋りながら二里の峻坂をよじて汗を拭き拭き峠を越えた父の姿が髣髴して、圭一郎は極度の昂奮から自殺してしまいたいほどみずからを責めた。
 圭一郎は何処に向かおうと八方塞りの気持を感じた。心に在るものはただ身動きの出来ない呪縛のみである。
(『業苦』)

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか--酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果として肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音機を聴かせて貰いにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上ってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
(『檸檬』)

 梶井の登場人物の陰鬱さは嘉村磯多の登場人物の業苦と根本的に違うことは明白であろう。嘉村の作品は狭く出口のない世界を呈している。想像力が知覚を支配して、登場人物は、たいした理由もないのに、その世界そのものにおしつぶされそうになっている。嘉村の作品の主人公の関心は「気持」に基づいたものであり、「心に在るものはただ身動きの出来ない呪縛のみ」だ。

 一方、梶井の作品の世界は決して狭くはないし、登場人物は世界によって陰鬱にさせられるのではない。どこからともなく世界の中に登場してくる蓄積した「宿酔」のような「えたいの知れない不吉な塊」によって、陰鬱にさせられる。

 嘉村に限らず、私小説の書き手は当為の理由をつねに存在から引き出している。彼らはフランシス・ベーコンの批判する「洞窟のイドラ」にとらわれているというわけだ。「洞窟のイドラは各個人のものである。各人は彼特有の洞窟のようなものをもっており、それが彼自身の性格や教育や環境によって、自然の光を屈折させたり弱めたりする」(『ノーヴム・オルガヌム』)。私小説家たちは自らの経験を観察し、生活に役立つ知識や思考を抽出することはない。そこにはベーコンの顕在表・欠如表・程度表に相当するものは見つからない。

 私小説は帰納的と言うよりは、演繹的論理に基づいている。ただし、彼らの論理は換位法であるけれども、不周延の概念を周延させて使っている。それに対して、梶井の作品の主人公の関心は美=醜であって、美が美として感じられなくなり、「何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた」のである。つまり、『業苦』の主人公は動けなくなるのに対して、『檸檬』の主人公は、逆に、動かずにはいられなくなる。存在の縮小感にとらわれる嘉村は運動に否定的傾向を示し、その世界は名詞的であるが、梶井は、他動詞的に、運動に向かう衝動に対して肯定的評価を下している。

 名詞の変化型は人称や数量などに対応するが、動詞と違い、過去・現在・未来といった時間とは関連が稀薄であり、私小説が発展性を欠くのはこの名詞中心に原因がある。言語の動詞の時間変化はその使用者の時間概念を表象する。

 さらに、両者の世界の差異を詳しく分析するために、嘉村の『途上』の一節を引用してみる。

 そんなことも忽ちバレてしまった。最早私は、家のものからも、近所の誰からも軽蔑された。路を歩けば、子供さえ指を差して私のことを嗤った。私は道の行き過ぎに弥次る子供が何よりも怖くて、子供の群を見つけると遠廻りをしても避けるほど、日々卑屈になって行った。

 嘉村の作品の主人公は自分の気分に没入し、世界の移転を待つだけであるのに対して、一方、梶井の主人公は、『檸檬』の最後の部分のように、世界を破壊し、新たな価値を創造しようとする。『檸檬』に限らず、梶井の多くの作品に登場してくる主人公は「AはAであり、BはBである」という同一性を信じることができない。この場合の同一性は、同語反復ではなく、命題と命題の関係における同一の原理、すなわち同一律を意味している。

 ヘラクレイトスは、「上り道も下り道も一つの同じものだ」とか、「海は清らかな水であるとともに汚い水である。魚にとっては命をもたらすが、人間にとっては死をもたらすものだから」というように、言語による同一性が相対性を前提にしていることを指摘している。言葉を用いた定義は同一律や不可弁別者同一の原理ではなく、「AはBである」という術語形式によらなければならない。この措定は、厳密になればなるほど、成立することが困難になっていく。同一性は事実ではなく、一つの価値なのである。同一性は幾何学的比例によって成り立つ。

 こうした論理学的問題は知的好奇心を誘うことは間違いないが、多くの場合、ディオゲネス・ラエルティオスが『ギリシア哲学者列伝』において伝えるように、熟練した「デロス島の潜水夫」を断ったために、溺れ、さらにはその土左衛門の検死に時間を費やしている。おそらく彼らは論理学や存在論などを研究する前に、水泳を覚えることのほうが先決である。

 梶井の主人公は、疑うことを意図しているわけではない以上、懐疑論者ではない。梶井の作品にしても、嘉村の作品にしても、芥川の作品群に見られるような自尊心の問題は存在していないが、「子供の群を見つけると遠廻りをしても」避ける嘉村の作品の世界は病的であるのに対して、梶井のものははるかに健康志向である。梶井の主人公は、健康の欠如によってではなく、逆に、健康の過剰によって病気になっている。梶井は肺結核に苦しんでいたが、その作品に見られる精神は病気からほど遠い。

 『のんきな患者』だけでなく、梶井の作品の主人公は、病気であるにもかかわらず、一様に「のんき」であり、その「のんき」さはユーモアを感じさせる。『のんきな患者』の主人公は結核による死に向かう外的なリズムではなく、自分自身の内的なリズムで「のんき」に構えているが、「自分のリズムのほうを大事にするというのも、ちょっとたいしたもんだ、という気がしないでもない」(森毅『若い仲間に』)。こうした健康的な精神を所有した作家は、日本近代文学において、極めて例外的な存在である。梶井のほかには、坂口安吾の作品に--『白痴』や『風と光と二十の私と』など--、見られるものだ。

 ただ、健康志向は同じでも、梶井と安吾は同一ではない。梶井の作品において、形象化の少ない安吾のものと違い、具体的な対他・対社会的関係が言及されることは稀である。また、会話が、安吾の『白痴』では重要な契機になっているのと比べると、『檸檬』や『桜の樹の下には』などで会話が一度も用いられていないように、重要な機能を果たすことがほとんどない。

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