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中間小説の時代(1)(2023)

中間小説の時代
Saven Satow
Aug. 27, 2023

「私が探偵小説を書きはじめるころまでは、大衆文芸という言葉はなかった」。
江戸川乱歩

1 文学史と系譜学
 SNSを通じて自分の意見を述べる文学者ももはや珍しくない。その中でも松井計は積極的に発信している作家の一人である。彼の投稿の話題は非常に多岐に亘り、文学に関するコメントも散見される。

 その松井計は、2023年7月4日09時05分投稿のツイートにおいて、今日のエンタメ小説について次のように述べている。

大衆文芸てのはもう存在しないのですよ。今、エンタテインメント小説と呼ばれるジャンルは大衆文芸とルーツの1つを共有してはいる。所謂、「書き講談」。が、その手法は今では漫画が継承し、エンタテインメント小説はその影響下にない。今のエンタテインメント小説は昔の中間小説と同じものですね。

 「エンタテインメント小説」は「大衆文芸」に起源を持っているけれども、もはやその「影響下にない」。「継承」したのは「漫画」で、「エンタテインメント小説」はかつての「中間小説」に当たる。これは次のように言い換えられる。文学史から見れば、「エンタテインメント小説」は「大衆文芸」の流れに位置付けられるが、系譜学によって捉えるならば、むしろ、後継者は「漫画」だ。「エンタテインメント小説」は「中間小説」の発展したものである。それは、確かに、「大衆文芸」と歴史の流れにおいてつながっている。しかし、「大衆文芸」の後継者は文学史の外の「漫画」で、「エンタテインメント小説」は純文学と大衆文学の間に位置する「中間小説」の系譜にある。その意味で、文学上の「大衆文芸」は絶滅している。

 また、「エンタテインメント小説」は直木賞の対象範囲の文学作品を含む。直木三十五賞は、大衆性を押さえた長編小説作品あるいは短編集に与えられる文学賞である。しかし、かなり以前から「エンタテインメント小説」が候補や受賞に挙がっている。1988年、第99回直木賞を受賞した景山民夫の『遠い海から来たCOO』を「大衆文芸」と呼ぶことなどあり得ない。そもそも、今日「大衆」を使うことは非常に限定的である。かつては吉本隆明のように「大衆」を自らの思想のキーワードとして扱っていた理論家もいたが、今では、「マスコミ」が「メディア」と称される通り、耳にすることも稀だ。「大衆」が事実上死語で、直木賞が対象とする作品群は「エンタテインメント小説」がふさわしいというわけだ。けれども、「漫画」はサブカルチャーに属し、マスカルチャーではない。継承していても、大衆性を引き継いではいない。「大衆」に、もはや文学も「漫画」も立脚していない。

 文学史は直接的影響関係を考察する。一方、系譜学は本質的類似性を分析する。言うまでもなく、たんに似ているという直観だけでは説得力を持たない。ただ、フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』が示す通り、後者は前者を相対化する認識をもたらす。系譜学的見方は歴史の複線性・非連続性・再帰性を明らかにする。

 松井計のツイートに登場する「大衆文芸」や「書き講談」、「中間小説」は、現在、一般的に用いられる述語ではない。この短文を理解するにはその予備知識が不可欠である。いずれも過渡的に使われたタームで、その出現と消失が文学の流れを示している。連続しているものだけを見ていては、変遷の過程や文学シーンの雰囲気がよくわからない。松井計は、「エンタテインメント小説」を語る際に、それが忘れられていると指摘する。その連続と非連続を考える時、過去だけでなく、今後の文学の方向性が見えてくる。

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