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忌野清志郎に見るロックンロール(2009)

忌野清志郎に見るロックンロール
Saven Satow
May, 09, 2009

「忌野清志郎の存在を生かしつづける事がオレの果たす役割だと勝手に思ってるンで!」
泉谷しげる

 ヘアスタイルやメークアップ、衣装、音楽的装飾のいずれをとっても、忌野清志朗はエキセントリックなパブリック・イメージを持ち続けています。トンガリながらも、肩肘を張らず、さりとてシニカルにもならないで飄々とした独特の存在感を示しています。

 ファンならよく知っていることですが、清志郎のファッションやステージ・アクトなどの多くは先人のアイデアを借用したものです。かの「愛しあってるかい?」はオーティス・レディングから拝借しています。しかし、いずれも下手なパクリとならず、清志郎は完全に消化して、自分のものにしています。

 しかし、何と言っても、清志郎の最大の特徴は、スライドホイッスルを思い起こすあの歌唱法でしょう。聞けば誰でもたちどころに彼だとわかるのです。日本のポップ・ミュージック史上で最も個性的ボーカルの一人です。

 しかも、強烈なアクを持ちながらも、清志郎はさまざまなものとの親和性があります。基調はR&Bですが、楽曲の幅は広いのです。激しいシャウトの『ベイビー!逃げるんだ』から子どもでも口ずさめる『パパの歌』まですべてに違和感がありません。また、共演も多く、なおかつ相手も多岐に亘ります。金子マリ、矢野顕子、木梨憲武、電撃ネットワークなどこのリストはまだまだ続きます。スライドホイッスルがよく効果音で使われるように、清志郎のボーカルも印象的でありつつ、柔らかな感じがあり、相手を選ばないのです。

 1970年、RCサクセションのメーン・ボーカルとして清志郎はキャリアをスタートしたものの、70年代を通じて、活動は低迷します。1972年に『僕の好きな先生』がヒットしましたが、後が続かず、キワモノの一発屋と見た音楽ファンも少なくありません。フォーク・グループとしてデビューしたけれども、明らかにそれとは異質で、世間はどう受けとっていいのか戸惑っているのです。

 清志郎の苦労と忍耐が報われるのは、80年代に入ってからのことです。1980年、『雨上がりの夜空に』と『トランジスタ・ラジオ』がヒットします。彼のRCサクセションは、その少し前から最高のライブ・バンドの一つと評価されていましたが、これにより全国の音楽ファンにも広く知られることになります。

 けれども、グラム・ロックとパンク、R&Bを融合したその音楽がシーンを引っ張ったわけではありません。テクノ・サウンドが小学生まで虜にした同時代の音楽と比べると、異質さは依然として続いています。むしろ、80年代前半という時代が彼を歓迎したと考えるべきでしょう。

 それを最も表わしているのが1982年に坂本龍一と共演した『い・け・な・いルージュマジック』です。プロモーションビデオで、本物の一万円札の札束をばらまいたり、二人でキスをしたりするなどのシーンが世間に衝撃を与えます。これは80年代前半の音楽シーンにとどまらず、「何でもあり」という時代の雰囲気をよく物語っています。

 これだけエキセントリックであれば、一旦世間から認知されると、他に取って代わるものがいないポジションを確保できるものです。ヒット・チャートにとらわれることなく、清志郎はそのカリスマ性を増していきます。

 80年代後半になると、清志郎は表現に対する圧力と戦う場面が増えます。かねてより風通しが悪いとカビが生えるとばかりにタブーをからかうことをしばしば行いましたし、また諷刺は彼の歌詞の特徴の一つです。抗議を受けたり、有線放送で禁止処分となったりすることも少なくありません。しかし、1988年以降は、放送・発売禁止と何度も本格的に対峙することになるのです。

 1988年、東芝EMIはRCサクセションのニュー・アルバム『COVERS』を発売中止にします。EMIの日本の親会社である東芝が原発事業も手がけていたため、反核・反原発に触れた「ラブ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」の収録曲を好ましくないと判断した結果です。その後、キティ・レコードから発売されたこのアルバムは、RCにとって最初で最後のオリコン・チャート1位を記録しています。

 折しも、昭和天皇の健康状態をめぐって各方面で論理的な説明を欠く「自粛」が乱発されていた時期です。清志郎にはこんな雰囲気に抗いをせずにはいられないのです。清志郎は、次第に、諷刺を強めていきます。

 自分だけでなく、他のアーティストへの圧力にも清志郎は大っぴらに抵抗を示していきます。1989年、生番組『ヒットスタジオR&N』に、ザ・タイマーズというユニットで出演した際、『ラブ・ミー・テンダー』や山口富士夫のバンドTEARDROPSの『谷間のうた』に対するFM東京の放送禁止措置に抗議するため、5曲メドレーの合間に『FM東京のうた』を演奏しています。

 1995年、清志郎は自身のレコード倫理審査会が認めない楽曲を発表させるために、インディーズレーベルSWIM RECORDSを設立します。諷刺の精神を存分に発揮するためです。

 当時の音楽シーンはJ-POPの流行が本格化した頃で、安室奈美恵やB’z、trf、大黒摩季などによるミリオンセラーが次々と生まれています。アメリカの音楽産業の全盛時代が80年代前半だったとすれば、日本は90年代後半がそれにあたるでしょう。と同時に、アーティスト間のセールスに格差が拡大してもいきます。もちろん、彼らの歌詞が自分を物語っているのがほとんどで、問題になることなどありません。これだけ聞いていると、この世には政治も経済もないと錯覚してしまうほどです。

 1999年、清志郎をめぐる記事が多くの新聞に載ります。ポリドールが彼のユニットLittle Screaming Revueのアルバム『冬の十字架』の販売を拒否したというのです。パンク・ロックにアレンジした『君が代』を収録しており、同年8月に成立した国旗・国歌法を意識したこともあって、自粛しています。その後、販売元をUKプロジェクトに変えてインディーズのSWIM RECORDSレーベルから何とか発売されます。

 国家を批判的にアレンジする企ては、ポップ・ミュージックではよくあることです。ザ・ビートルズが『愛こそすべて』に血なまぐさい歌詞で知られる『ラ・マルセイエーズ』のイントロを使っています。これは2本あるラッパを1本だけにしたため、かったるい高校生がだらだらと行進するようなリズムになっています。だらしなくなった軍隊行進曲に「愛こそすべて」といった歌詞をつけているのですから、最高のパロディです。

 また、ウッドストックでジミ・ヘンドリックスは『星条旗よ永遠なれ』を歪んだサウンドで演奏しています。他にも、フランスのセルジュ・ゲンズブールが『ラ・マルセイエーズ』をレゲエ調にアレンジした曲をライブで披露しようとます。ただ、このときは、右翼に押しかけられ、中止に追いこまれています。清志郎も彼らと肩を並べたというわけです。

 清志郎はここでとまりません。2000年、そのUKプロジェクトが彼のユニットのラフィータフィーのアルバム『夏の十字架』を発売中止にしています。インディーズから販売を拒否されるなどという話は聞いたことがありません。インディーズ業界の問題を批判した『ライブ・ハウス』を不快に感じたからです。

 清志郎は下北沢QUEというライブ・ハウスのオーナーを暗に揶揄したのですが、ここはUKプロジェクトと系列関係にあったからです。東芝EMIの件を思い起こすように、インディーズも同じ穴のムジナだったというわけです。世間に醜態をさらした挙げ句、SWIM RECORDSは同アルバムを販売することになります。

 その後も清志郎の諷刺はとどまることがありません。2002年、FM802開局13年記念イベントに、「長間敏(おさまびん)」と名乗り、「神田春(かんだはる)」と自称する三宅伸治と共にデュオ「アルカイダーズ」として出演し、9・11に関連した曲を演奏しています。諷刺には、当然、コンテクストに基づく意味があります。当時、アメリカでは大半のラジオ局が多くの楽曲の放送を自粛しています。米国と同様、参加したFM局はアルカイダーズの部分を放送していません。

  2003年、日本武道館で開催された「アースデイ・コンサート」に出演し、予定外の『君が代』や新版『あこがれの北朝鮮』などを歌っています。これは全国の民放FMが生放送していたのですが、その部分は突然切り替えられてしまいます。

 清志郎が音楽を通じて続けていたのは、権威主義への抗いでしょう。諷刺を強化していった80年代後半以降だけでなく、それ以前にも見られます。最初のヒット曲で歌われる「先生」は決して権威主義的に振舞っていません。けれども、そこには先生への清志郎からのリスペクトがあるのです。

 権威主義への抗いが権威主義へと転じてしまう危険性も確かにあります。インディーズ業界がその一例でしょう。清志郎はそれをよく心得て、そうならないように注意し続けます。それを最も具現しているのがあのスライドホイッスルのような歌唱法なのです。初めて聞いた人がふざけているのかと思っても不思議ではありません。権威になりようがないのです。

 権威主義への抗いは、おそらく、ロックンロールの重要なスピリットの一つです。しかし、日本のロックンロールには、フォーク・ソングに比べて、あまり強く感じられません。それどころか、権威主義的に振舞い、自分こそロックンローラーだと公言するものさえいるのです。ロックンロールを口実にしているにすぎません。

 「ロックン・ロールが始まる 理屈じゃないんだ ロックン・ロールに嘘はない、嘘つきはいない 宗教も思想もいらない 俺は何も持たない ロックン・ロールの神様 おれにはついている」(忌野清志郎『ROCK ME BABY』)。

 忌野清志郎は日本のロックンロールを代表するだけではありません。間違いなく、その創始者の一人にほかならないのです。
〈了〉

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