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『棒縛』にも懲りない社会保険庁(2006)

『棒縛』にも懲りない社会保険庁
Saven Satow
May, 26, 2006

「嘘も追従も世渡り」。

 社会保険庁の地方組織である社会保険事務所が、昨2005年の11月から今年の3月にかけて、本人の申請があったわけでもないのに、無断で保険料を免除したり、納付を猶予したりしています。国民年金保険料の未納者が急増しているため、未納率を低く見せかける組織的な操作と推察され、総数は4万人分以上と見られています。

 年金は老後の保険です。定年後、一般的には再就職しても以前の収入を得られないものです。そもそも職に就くことも難しくなります。それに備えるための資金の一部が年金なのです。

 年金は植民地獲得を推進した原動力の一つとも考えられています。植民地支配は宗主国にとって経済的に必ずしも割がよくありません。投資してもそれに見合うリターンが得られㇾないのです。英領インド以外の植民地経営は赤字で、その地域と自由貿易をした方が利益があったと現在では考えられています。それでも、植民地獲得が行われたのは国家的利益ではなく、個人的利得が大きかったと見られています。

 裕福な貴族でもない限り、老後の保障は心細いものです。そこで新興勢力は植民地制服に乗り出します。その経営や貿易で成功すれば、本国で認められます。貴族に列席されたり、政治的ポストに就けたりして、老後の年金が得られるというわけです。英国による東アジアの植民地政策にはスコットランド出身の新興勢力が関わっており、彼らのモチベーションの一つに年金が認められるのです。

 かように年金は大きい問題です。歴史を動かすほどの力があります。政治家もそれを理解しておくべきです。これを野党の煽動だとかメディアの騒ぎすぎなどと思うようなら辞任して老後の蓄えなしの生活をしてみるべきでしょう。

 社会保険庁と言えば、つい最近まで、年金資金の運用に関して厳しく批判されたばかりです。その運用実態が露見したこともあって、未納率が高くなったのですが、彼らはまったく懲りていません。社会保険庁はまるで狂言『棒縛《ぼうしばり》』の太郎冠者・次郎冠者のようです。

 『棒縛』は小名狂言の二人冠者物に分類されます。登場人物は次郎冠者(シテ)と太郎冠者、主人です。ただし、和泉流では、太郎冠者がシテとなります。

 自分の留守中に、太郎冠者と次郎冠者が酒を盗み飲みしていると知った主人は、今日こそは戒めてやろうと思います。一計を案じ、次郎冠者を棒に、太郎冠者を後ろ手にそれぞれ縛りあげます。喚く二人を置いて、主人は安心して出かけていきます。けれども、仕打ちに腹を立てた二人は、逆にファイトを燃やし、協力して酒を盗み飲みします。すっかり酔いが回り、謡い出すだけでなく、縛られたままの姿で舞まで始めてしまいます。そこに、主人が戻ってきます。ご機嫌の二人はそれに気づかず、盃に映った主人の顔を見ても、酒を飲まれやしないかという主人の「執心」だろうと思い込みます。しかも、それを面白がり、主人の顔を貶す始末です。とうとう主人が怒りを爆発させ、次郎冠者を追いかけで幕となります。これは「追い込み」と呼ばれるオチで、ドリフのコントでもお馴染みでしょう。

 この『棒縛』での舞や謡の多くは能や舞楽などのパロディです。例えば、最後の方で太郎冠者と次郎冠者が一緒に謡う「月は一つ 影は二つ みつ(三つ=満つ)汐の 夜の盃に しゅ(主=酒)を乗せて 主とも思わぬ 内の者かな」は、能『松風』の「月は一つ 影は二つ 満つ汐の 夜の車に月を乗せて 憂しとも思わぬ 潮路かなや」を捩っています。かつての観客は、観劇する際、それを承知しているのが前提です。元ネタに対する観客=演者=作者の共通理解を基盤に狂言の舞台は成立し、笑いはより多層になるのです。

 しかし、社会保険庁は人々が何も知らないことを前提にして動いています。共通理解など彼らの眼中にないのです。年金は老後の生活にいくばかりかの笑いがあるようにさせるものでもありましょう。ところが、彼らときたら、その笑いを奪おうとしているのです。社会保険庁は、ありとあらゆる手を尽くして、酒を盗み飲む二人の冠者のような組織だと承知して接していかなければなりません。行動を改めさせようとしても、縛りあげる程度では彼らに効き目はないのです。
〈了〉

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