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節分の鬼と福(2018)

節分の鬼と福
Saven Satow
Feb. 04, 2018

「『福は内!鬼は外!』っていうのは、悪妻とか悪夫はでていかなきゃいけなくなっちゃうんですね。それから悪ガキ。これも出て行かなきゃなっちゃいますね」。
美輪明宏

 日本の伝統的行事の中で最も庶民がなじんでいるものの一つは節分でしょう。節分は、本来、「季節を分ける」という意味です。ただ、江戸時代以降に立春の前日を指すようになります。立春は2月4日頃ですから、節分は通常2月3日にあたります。

 節分の行事は、地域によって少々異なりますが、一般的には豆まきや柊鰯(やいかがし)でしょう。前者は、「鬼は外!福は内!」と大きな声を上げながら炒った大豆をまき、その福豆を年齢の数もしくはそれに一つ足した数だけ食べる厄除けです。後者は、柊の小枝と焼いた鰯の頭を門口に挿した魔除けです。

 その節分をめぐる昔ばなしには大きく二つの種類があります。一つはやいかがしや豆まきなどの行事の起源です。節分自体ではなく、その時に行われる行為の由来で、鬼が関係しています。もう一つは鬼が福をもたらすものです。

 前者も面白いのですが、興味深いのはやはり後者です。もちろん、鬼がご利益を授ける話は決して珍しくはありません。『こぶとりじいさん』がよく知られた例です。けれども、節分の行事の起源の物語は鬼を撃退する内容です。その趣旨に反しているところに興味がそそられます。

 鬼が福をもたらす話も豆まきのかけ声から二つに分けられます。一つは「鬼は内!福は内!」、もう一つは「鬼は内!福は外!」です。前者は鬼も福も内に来いと言っています。ところが、後者は、鬼は内に来て欲しいが、福なんか来るなと声を上げています。それでなぜ福が鬼によってもたらされるのか不思議です。

 「鬼は内!福は内!」の例として新潟県に伝わる『田植え鬼』が挙げられます。

 昔、佐渡の黒姫に勘右衛門という長者が住んでいます。ある年の節分の夜に、「鬼は外!福は内!」と豆まきをしていると、助けてくれと赤鬼が台所から飛び出してきます。勘右衛門は驚き慌てましたが、赤鬼を奥の座敷で歓待します。金持ち喧嘩せずです。赤鬼はすっかりご機嫌になります。赤尾には感謝して、翌朝、家を去っていきます。

 春になり、佐渡も田植えの時期を迎えます。勘右衛門の家でも田植えに取りかかります。田植えは時間との勝負です。けれども、急に激しい雨が降り出し、その日の作業は中止になります。翌日、田んぼに行ってみると、驚いたことに、田植えがすんでいます。

 その年以来、春になると、勘右衛門の田んぼの田植えが一晩のうちに終わるようになります。代替わりをしてもその不思議な出来事は続きます。

 何世代も後の勘右衛門がその時期に木陰に隠れて、誰が田植えをしているのか確かめることにします。真っ暗な田んぼの中に一人の早乙女が入っていくのを目にします。

 早乙女は、いい声で田植え歌を歌いながら、あっという間に苗を植えていきます。勘右衛門は、歌声につられて、一緒に田んぼに入って踊り出してしまいます。勘右衛門に気がついた早乙女は、高く舞い上がり赤鬼の姿に変わり、お宮の裏山へ消えていきます。

 この出来事を踏まえ、勘右衛門の家では、翌年から、「福は内!鬼も内!」と節分の豆まきをするようになります。その後、裏山は「鬼山」と呼ばれたとのことです。

 以上のように、この物語は鬼の恩返しです。節分の際に、歓待され、そのご恩を返すために、田植えをしたというわけです。苦しんだり、困ったりしている者にはどんな時であっても親切にしなさいという道徳的教えがこめられています。この物語の福は恩返しです。比較的読み取りやすいメッセージです。

 他方、「鬼は内!福は外!」は容易に理解できるわけではありません。こうした昔ばなしを二つ紹介しましょう。理由は共通の特徴を明らかにするためです。共通点にこうした昔ばなしが訴える社会的メッセージが見出せます。

 まず、新潟県に伝わる『節分の福鬼』です。

 昔、ある村に貧しい農民のおじいさんとおばあさんが住んでいます。一生懸命働いてきましたが、福の神にめぐり会えず、極貧の生活が続いています。今日は節分だというのに、家には豆がありません。そこで、二人は着物を質に入れて豆を買うことにします。けれども、着物だけでは足りず、おばあさんの腰巻きまで町の質屋に預けなければならなくなります。

 やっと豆を買えた二人は、家に帰ると、早速、豆まきを始めます。けれども、着物はおろか、おばあさんの腰巻まで質に入れています。その現実を前に、二人はなんだか情けなく、悲しくなってしまいます。

 そこでおじいさんが掛け声を逆にしようと提案します。一生懸命働いても福の神と出会えなかったのだから、今さらなんてこともないというわけです。二人は「鬼は内!福は外!」と叫びながら、豆まきを再開します。もうやけくそです。

 突然、雷が鳴ったような大きな音がしたかと思うと、家の中に赤鬼と青鬼が現われます。鬼たちは、節分に人間の家に招待されることはありがたいので、楽しませてもらうと言います。鬼はおじいさんの案内で質屋まで飛んで行き、履いていた虎のふんどしを質草にし、千両を借り受けます。

 ところが、鬼が急に怯え始めます。鬼退治で有名な鍾馗様(しょうきさま)の掛け軸があったからです。鬼は慌てて質屋を後にし、魚屋や米屋、酒屋を叩き起こして食べ物や酒を買いこみます。

 家に戻ると、大宴会を始めます。飲んで、食って、歌って、踊ってと鬼たちはすっかりご機嫌です。夜中のこの騒ぎにたまりかね、隣のおじいさんが苦情を言いに玄関度を叩きます。

 隣のおじいさんは酔っ払いとなじり、静かにしろと大きな声で抗議します。それを耳にした鬼たちは夜中に大声を張り上げるお前こそ酔っ払いだと言い返します。すると、隣のおじいさんは、酔っ払ってなどおらず、自分は「正気」だと怒鳴ります。

 これを聞いた鬼たちは急に怯え始めます。「正気」を「鍾馗」と勘違いしたからです。鬼は慌てて天井を破って空へと逃げだします。その際、千両の残りは世話になった礼だとして達者に暮らせとおじいさんとおばあさんに言い残します。

 おじいさんとおばあさんは、あの鬼たちは福の神ではないかと言い合います。その後、二人はいつまでも達者に暮らしたということです。

 次は岩手県に伝わる『節分の鬼』です。

 昔、ある山里に、妻子に先立たれた貧乏なおじいさんが一人で住んでいます。生きる気力を失い、もうすぐ会いに行くと毎日墓参りをしています。

 節分の日、おじいさんは雪に埋まりながら二人の墓参りに出かけます。道すがら、村の家々からも「鬼は外!福は内!」と楽しそうな声が聞こえてきます。それを耳にしたおじいさんは涙がとまりません。

 家に戻ると、おじいさんは、亡くなった息子がつくってくれた鬼の面を取り出し、楽しかった節分の思い出を思い返します。福の神に見放されたとおじいさんは、その鬼の面を被り、腹立ちまぎれに、「鬼は内!福は外!」と叫んで豆まきを始めます。

 突然、玄関戸を叩く音がします。おじいさんが戸を開けると、そこにいたのは大勢の鬼です。鬼たちは、節分に招待されるとはありがたいとずかずかと家に上がります。豆まきで追い払われた鬼が酒や食べ物を持参してこの家に集まり、大宴会を始めます。鬼たちは、おじいさんも誘い、飲んで、食って、歌って、踊ってとどんちゃんすぁぎを一晩中繰り広げます。一番鶏が鳴くのを聞くと、鬼たちはおじいさんにお礼としてお金を渡し、来年も来ると上機嫌で帰って行きます。

 春を迎え、おじいさんは鬼のお金で墓を立派に建て直します。来年も鬼たちが家に来るので、もう少し生きることにしたと墓に向かって手を合わせるのです。

 以上です。いずれの主人公も孤立し、抑うつ状態で、人生に絶望しています。家族に先立たれて孤独だったり、節分の豆まきさえ満足にできないほど貧乏だったりしています。福がうちになんかこないのだと諦めと恨み、怒りで心がいっぱいになり、「福は外!鬼は内!」と叫んで豆まきをします。ただ、彼らの真意は福が外であって、鬼が内ではありません。

 昔ばなしにおいてへそ曲がりは否定的に扱われます。ムラ社会ではみんなと同じことをするのが規範だからです。しかし、節分の主人公はへそ曲がりではありません。人生に希望を見出せないために、逆のことを叫んだだけです。それは望みや願いではなく、自分の置かれた現実です。ところが、その言葉が字義通りの転倒を招きます。

 人々は鬼を恐れています。鬼は妖怪ですから、敬ったり、拝んだりする対象ではありません。鬼は大きくてたくましく、力強いエネルギーに満ち溢れています。喜怒哀楽がはっきりしていて、身体のみならず、精神も健康そのものです。ただ、レトリックをあまり解しません。

 ですから、鬼が福をもたらすとしても、それは主人公の信心深さのせいではありません。鬼にとって楽しかったり、嬉しかったりすることをしてくれたからです。世の中が自分たちを排除しようとしているのに、主人公は鬼たちから家に招いてくれたことに感謝しています。

 招待は主人公にとって本意ではありませんから、道徳的規範に従ったわけではありません。宗教的存在によるご利益の物語とそこが異なります。

 主人公は福から見放され、孤独感や絶望感を覚えています。しかし、節分の時の鬼たちも同じです。違いは生のエネルギーです。主人公が鬼からもたらされたのは生きる気力です。孤独ではないと感じたり、富を得たりして人生に希望を見出しています。この昔ばなしの福は生きる希望です。

 福は思わぬところからやってくるのです。生きていればいいことがいつかあるものだというメッセージが読み取れます。鬼たちは家内で歌や踊りで楽しんでいます。その間、もちろん、鬼は笑っています。客が来て笑い声が主人公の家に響くのは久しぶりのことです。それは喜びとして主人公と鬼の間でその感情が共有されます。喜びは人と分かち合う感情です。主人公が忘れていたことは笑いでしょう。「笑う門には福来たる」なのです。
〈了〉

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