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エコロジーの働きかける発想(2014)

エコロジーの働きかける発想
Saven Satow
Feb. 25, 2014

「魚心あれば水心」。

 エコロジーへの意識の高まりから学術や芸術の考え方が変わりつつある。それは、従来、あまり扱ってこなかった分野が認識に組みこむようになっただけではない。エコロジーの発想を借用した方法論も考案されている。その分野の活動と環境変化の相互作用を明らかにするというものだ。文学を含む芸術の研究で冠される場合、そうした意味合いがある。音楽や文学を著作権もしくは著作者人格権をめぐる判決文から吟味する試みが当たる。それは社会史による体系の再構成であって、「エコロジー」を用いる必要があるかどうかは疑問である。実際にはミシェル・フーコーの方法論の拡張を言い換えているだけで、人間中心主義批判や持続可能性の実現のために通常導入されるエコロジーの意義は欠落している。ただ、従前のアプローチが内省的であったことの批判がそこにこめられている。

 環境と一口に言っても、分野によって扱い方が違う。それどころか、同じ領域であっても、アプローチによって捉え方が異なる。最も伝統的な対抗軸の一つである主知主義と主意主義を例によろう。前者は事物が実在し、普遍概念があるとするリアリズム、後者は人間の意識によって認知され、普遍がないとするノミナリズムである。現代の構造主義と社会構成主義の退行もこのヴァリエーションである。環境を定量的に捉えようとすれば主知主義、定性的に考えるなら主意主義をそれぞれ指向する。従来は自然科学が普遍主義=実在論、人文科学が相対主義=唯名論、社会科学がその折衷という傾向があったが、今では学際的で、明確に区別できない。

 むしろ、こういった学際的ネットワークはエコシステムを体現している。さまざまな関係者が相互依存=相互作用している。誰かが欠ければ、全体としてバランスが崩れてしまう。これは、NGOを含めた組織の活動についても言えるだろう。さまざまな組織体が技術やサービスを持ち寄り、相互作用をしながら、全体の大きなシステムを形成して目的の実現を目指す。文化的のみならず、政治的・経済的活動もこのような全体的調整のシステムが求められる。荒っぽい恣意的なリーダーシップによる混乱をもたらす改革はおよび出ない。

 人間中心主義批判を踏まえた持続可能性の実現のためにさまざまに検討されたエコロジーは、確かに、発想転換をもたらしている。この意義を理解しないものの中に、環境保全と経済成長の二項対立にとらわれたアナクロニズムも見られる。

 環境を少々包括的に検討してみよう。人間は環境と相互作用をし、その変化に適応・順応している。人間にとって環境は自然・社会・文化によって構成されている。この三つも融合している場合が少なくなく、重点によって識別されるのが実情だ。社会資本や文化資本といった概念がその参考になろう。すべてが環境となり得る。人間にとって他の人間も環境であり、生体内も内部環境と把握できる。

 自然環境は人間活動に依存するものと自律しているものに分けられる。大気汚染は依存、地震は非依存である。人間活動による環境破壊の原因は工業に限らない。古代文明で行われた灌漑農業は塩害をもたらしている。

 中には、自律と依存の識別が困難な場合もある。そうした場合には依存と仮定した上で対策を進め、非依存にも備える予防原則がとられる。また、新しい科学技術が環境破壊をしばしばもたらす。しかし、それを発見するのも科学技術の進化でもある。人環境と間活動の関係も必ずしも一方向的ではない。

 さらに、環境には物理的距離・時間の違いもある。地球外環境は遠いが、身近な生活環境は近い。あるいは、半年前の環境は近いのに対し、10万年後は遠い。しかし、環境の遠近は影響の大小や速度に必ずしも比例しない。それは月と潮の満ち引きからもわかるだろう。また、功レベル放射性廃棄物の管理は、ウランの枯渇後も続けられるのであり、後世代に負担だけを押しつける倫理的問題を引き起こす。環境変化を把握する難しさの一因でもある。

 生活地域は大きく村落と都市に分けられる。それは伝統的環境と都市的環境が対応する。前者は民俗学、後者は社会学が従来は主に扱っている。ただ、近年この区分は超えられつつある。都市は食料を外に依存している。自給自足が脆弱であり、防御性を高めるため、歴史的に壁で外部と隔絶する。もっとも、日本はその傾向が弱い。この断絶はコミュニケーションの高度化を促進する。反面、孤立化に伴い内向化も進む。内面性は都市環境から生まれる。

 都市は人口密度が高く、公衆衛生が悪化、感染症が流行しやすい。不衛生や貧困など社会問題が可視化される。また、移民のコミュニティが形成され、人種対立・暴動がしばしば起きる。他方、伝統的環境はほぼ都市的なそれと逆である。そこでは諸問題が顕在化していない。伝統社会を舞台にする場合、表現者の力量が要求される。

 伝統社会では地縁血縁が濃密である。そこで起きる犯罪は、津山三十人殺しが物語るように、そのもつれに起因する。犯人の特定は、横溝正史のミステリーの通り、その関係をたどる手法がとられる。他方、都市社会では人間関係が希薄である。永山則夫事件が示しているように、無差別的犯罪が生じる。捜査対象が閉鎖的人間関係に限定されない。都市を舞台にした作品で作者の恣意的理解がまかりとおってしまう一因でもある。

 近代化は都市化の進展とも言い表せる。都市的環境の与える認識が人々の間に拡散する。しかし、それは村落と都市の均質化を単純に意味しない。都市への人口集中が進み、分布の偏りが拡大する。これはパラドキシカルな事態を招く。都市環境を整備すればするほど、村落から人が集まってくる。この不均衡は統治担当者に従前以上の総合的政策立案を必要とさせる。

 環境の認識には文明的価値観と反文明的価値観がある。後者はしばしば前者の進化によって見出される。エコロジーの意義は、産業主義の成長に伴う深刻な環境悪化を受けた近代文明を相対化する人間中心主義批判である。文明の進展がもたらす矛盾によって反文明の思考が検討される。それは環境絶対主義とも言うべき極論に達することもある。人間を不在にして環境を絶対視する。環境と人間の相互作用を認め、持続可能な成長のような両者の調整によって問題を解決する態度を放棄してしまう。非妥協的な姿勢が高じて暴力による直接行動に訴える場合さえある。

 環境問題の解決には完成主義はあまり適当ではない。ある理想状態を想定し、その到達へと向かう。そうした完成主義よりも、相互作用がある以上、セカンド・ベストを目指す方が現実的だろう。環境に知があり、それが人間に認識を働きかける。こうした姿勢は現状を追認すべきだという敗北主義ではない。

 もちろん、文明的価値観を通じた反文明的なものの確認はこうした曲論だけではない。近代文明において権利は個人に属すると考えるのが標準である。けれども、現在、少なからずの国で少数民族や先住民族への権利が認定されている。日本でも札幌高裁が二風谷訴訟で先住民族としてのアイヌの権利を認めている。

 人間と環境の相互作用は必ずしも一様ではない。認識の変化が新技術を用意するのか、それともその逆なのかという問いは主意主義と主知主義の対立であるだけでなく、段階論を前提にしている。途上国では、先進国において起きた段階的変化が踏まれないことが少なくない。固定電話が普及しないまま、携帯電話が浸透している。そこで交わされている会話は必ずしも現代的ではない。都市に出稼ぎに行っている夫に農村の妻が送金の催促をするなど高度経済成長期の日本で聞かれた内容が多い。

 もっと驚く例がある。ケニアのトゥルカナの人々はねだりの文化で知られている。彼らは貸借や売買ではなく、物品をねだって入手する。昼間、家を訪れても、誰もいないことが多い。ねだりに行っているか、ねだられるのが嫌で留守にしているかのいずれかだからだ。近頃、彼らの間でも携帯電話が普及しているが、それを使ってその電話料金をねだっている。前近代から続く慣習を最先端の科学技術でも行っている。

 80年代、日本がプレモダン=モダン=ポストモダンの段階を踏んで発展していないという主張がなされている。モダンが十分浸透しないまま、プレモダンからポストモダンへと飛躍した日本は特殊だというわけだ。しかし、それは急成長する後進地域でよく見られる現象である。特に、グローバル化が進めば、他地域との制度の共通性が求められるようになる。ただし、その変化が機会主義的行動を促進させることはあっても、暮らしの意識まで変えるとは限らない。

 エコロジーから離れる話だが、先進国による途上国への支援は定量的に表われる対象に行われるのが常である。道路建設を始めとするインフラ整備や識字率の向上といった制度の拡充などに向けられることがほとんどである。しかし、すでに述べた通り、途上国では意識変化が伴わないことが多い。それを促すような支援が望ましい。途上国で起きる内戦を見ると、「国民」意識が弱いことが少なくない。人々が国民ではなく、宗教や民族、言語、地域にアイデンティティを見出している。これではまとまれず、対立につながりかねない。ネルソン・マンデラ元大統領が民族融和の際に、南アフリカ人という国民意識を強調したのはまさに卓見である。

 エコロジーがもたらしたのは環境知という発想だ。環境も人間に認識を働きかける。エコロジーは環境と人間の間の複雑で入り組んだ相互作用の認知を促す。調整的解決の必要性を痛感させる。関係に目を向けなければならないのだから、元凶を見つけてバッシングすればすむものではない。その短絡的態度は、むしろ、事態を悪化させたり、別の問題を引き起こしたりもする。すべてが環境となり得る以上、エコロジーの発想に基づく思考・判断・実践が現代的課題対応である。それは人間に転換を働きかけている。
〈了〉
参照文献
内堀基光他、『人類学研究』、放送大学教育振興会、2010年

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