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捕物帳と政談(4)(2023)

4 政談と近世
 江戸時代、捕物帳の代わりに、犯罪や裁判をめぐるサブカルチャーのジャンルだったのが「政談」である。政談と言うと、日本思想史においては荻生徂徠の『政談』が思い浮かぶ。これは8代将軍徳川吉宗の諮問に応じ、幕府政治の改革すべき点についての徂徠の意見を述べたものである。しかし、古典芸能ではお白洲物を指し、町奉行による裁きを見せ場とする。

 もっとも、奉行による裁きが失われた、もしくは最初からなかった作品もある。前者の代表例が『唐茄子屋政談』、後者は『遠山政談』である。いずれであっても、名奉行による頓智頓才を前提にしており、岡っ引きや同心などは端役の扱いである。『唐茄子屋政談』はその後の顛末に関する簡単な言及があり、『遠山政談』は、この事件に対して南町奉行遠山景元ならどのようなお裁きをしただろうかという想像がタイトルに込められている。、

 政談は奉行、すなわち武士が主要人物であるため、町人の世界を描く落語ではなく、元々は講談の演目である。しかし、講談を翻案として落語に手直しすることもよくあり、政談を主要なレパートリーとしている噺家も少なくない。六代目三遊亭圓生が代表例である。

 政談がなぜ奉行中心なのかは江戸時代のシステムを知ると、理解できる。

 前近代は共同体主義で、規範が共有され、その徳の実践が政治の目的である。法は生活の繰り返しから蓄積・形成された慣習や超越者から与えられた教えである。だから、特定の立法機関を設置しない。

 近世の日本では朱子学が公式イデオロギーであり、統治は徳治主義に基づいている。為政者は徳があるから統治を担当しているのであって、世間から信託されているわけではない。もちろん、有徳者であっても完全無欠ではない。傲慢にならず耳の痛い助言も厭わない知恵者を側近にしたり、議論して意思決定する集団指導体制をとったりする場合もある。祐徳者が規範に基づいて統治をしているのだから、それを司法がチェックする必要はない。当然、行政と市法は分立されない。

 前近代では共同体の構成員は規範を守る義務がある。権利はその対価として与えられる。犯罪はこの義務を守らない行為である。近代と違い、犯罪者であっても主体であるとは考えない。犯罪は共同体に対する挑戦、すなわち反体制的行為である。刑罰は権利の剥奪であり、生命刑が中心である。また、規範の説く秩序構造に基づき、身分や尊属卑属、連座制などによる刑罰の重軽が生じる。近世日本の刑罰体系もこのような特徴を有している。

 近世では行政と司法が一体で、第三者が存在しない。そのため、捜査や裁判において自白が重要である。それに対する世間の納得は道徳性である。捜査が恣意的に行われることは反道徳的であるから、世間は許さない。為政者としても、それは徳地主義を揺るがす行為で、認められない。

 道徳的であることと合理的であることは必ずしも矛盾しない。朱子学はあらゆる存在するものが「気」によって構成され、それを「理」が秩序立てているとする。朱子学は合理性を重視する思想であり、犯罪捜査もそれに基づいていなければならない。また、和算ブームが起きているように、庶民の間でも自然科学への関心が高い。行政や司法に合理性がなければ、彼らのお上への不信につながる。

 すでに述べた通り、逮捕や判断のいずれでも物的証拠よりも自白が重視される。黙秘権など認められない。当局は取調の際に拷問を使うことがある。物的証拠や共犯者の自白が得られているのに、罪を認めない場合がその条件である。有力な証拠が見つからないので、容疑者に自白させるために当局は拷問を使うわけではない。第三者がいないから、証拠の妥当性を容疑者本人に保証させるのが目的である。

 罪を犯した自らの過ちを認める道徳的な態度を取らなければならない。犯罪者が非を自覚する時、体制の道徳的基礎付けが改めて確認される。それを認めない者には、拷問によって内面を変えなければならない。政教一致は人間の外観と内面のそれでもあるからだ。

 規範は抽象的・一般的であるため、具体的・個別的事例に適応する際には解釈が必要になる。これは前近代も近代も同じである。ただし、前近代の法は人為的なものではないので、解釈が立法になる。これを担当するのが江戸時代では町奉行である。お裁きは立法行為に当たり、岡っ引きどころか同心にもできないことだ。当然、町奉行やお白州への庶民の関心は高い。

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