見出し画像

現実に反するイスラエルにおける右傾化の歴史(2016)

現実に反するイスラエルにおける右傾化の歴史
Saven Satow
Jun. 05, 2016

「勇気とは恐れるべきことをどのように恐れるか、 恐れるべきでないことをどのように恐れるべきでないかを知ることである」。
ダヴィド・ベン・グリオン

 2016年5月30日、イスラエル国会は極右政党「イスラエル我が家」の党首アヴィグドール・リーベルマンを国防相に選出する。彼は対パレスチナ強硬派として知られている。2014年4月に中断したパレスチナとの和平交渉の再開はこれでまた遠のくと見られている。

 ベンヤミン・ネタニヤフ内閣はリクードを中心とする連立政権であるが、議員定数120のうちの61議席を占めているだけである。そこで、政権基盤強化を狙い、リーベルマンに連立参加を求め、国防省への就任を打診する。イスラエル我が家が政権に加わり、与党の議席数は66に増加する。

 イスラエル史上最も右傾化した政権が誕生する。けれども、与党の中でも中道よりの議員はネタニヤフのこの方針に不信と不満の感情を示している。

 近年、イスラエルの右傾化は、日本と並んで、国際的に危惧されている。しかも、イスラエルの右傾化は安全保障の現実を反映していない。イスラエルの存在を脅かす脅威はどこにもない。ハマスやヒズボラは同国と全面戦争できるだけの力はない。加えて、イスラエルを敵視してきたイラクは体制が転換、シリアは内戦状態。イランも国際的孤立から脱却しつつある。

 客観的に見れば、イスラエルには存在を脅かす脅威などない。しかし、右傾化は主観的同朋意識のナショナリズムの過熱である。他との差異を強調して自らを規定する。このアイデンティの根拠は外部にとって曖昧である。けれども、外部にはわからないからこそ、内部は差異を確認できる。

 客観的なリスクと違い、不安は主観的である。不安はナショナリズム高揚の共通認知となり得る。国家存亡の危機が去ったからこそ、イスラエルは右傾化していると考えるべきだ。

 イスラエルはアラブ諸国に囲まれている。建国しても、その経緯から周辺国に承認されない。存在を認めない国々に取り囲まれ、イスラエルは国家存亡の危機に置かれる。実際、建国以来、アラブ諸国と4度戦火を交えている。

 60年代前半からパレスチナ・ゲリラの武装闘争が始まっていたが、イスラエルは問題視していない。アラブの大国エジプトを中心とした連合軍と違い、国家存亡に関わる勢力ではないからだ。それにかまっている余裕などない。

 イスラエルがパレスチナ・ゲリラを問題視し始めたのは、1967年の第3次中東戦争の後からである。わずか6日間の戦闘でイスラエルはエジプト・シリア・ヨルダンの連合軍に圧勝する。東エルサレムやガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラン高原まで占領してしまう。

 この大勝利によってイスラエルに余裕が生まれる。もはやアラブが戦争を仕掛けてくることもあるまい。国家存亡の危機は去ったとイスラエルは安堵する。

 ゆとりからイスラエルはパレスチナ・ゲリラに目を向け始める。ヤセル・アラファトをリーダーとするパレスチナ解放機構はヨルダン川東岸のカラメ村を拠点に、越境して小規模の武力闘争を繰り返している。ただ、戦車も戦闘機もジェット・へりも持っていない彼らの抵抗がイスラエルの存在を脅かすことなどない。ところが、1968年3月、イスラエル軍は、PLO掃討を目的に、カラメに侵攻する。

 このカラメの戦いはイスラエルにとって自衛戦争ではない。国家存亡の危機にない状況下での余裕がもたらした軍事行動である。これが現在に至るまで続くイスラエルによるパレスチナ・ゲリラへの攻撃の始まりだ。

 イスラエルは、予想に反して、目的を果たさないまま、撤退に追いこまれる。PLOの巧みなゲリラ戦術に苦しんだこともあるが、ヨルダン軍がパレスチナ側に加勢したことが大きい。イスラエルは、建国以来、初めてアラブ側に戦闘で敗北を喫する。

 大きな脅威が去った後では小さなものが気になってくる。客観的に見れば、当時のPLOは軍隊を派遣するほど危険な勢力ではない。ただ、彼らの攻撃は、戦争と違い、予想しにくい。いつ、どこで襲ってくるかもわからない恐れはイスラエル人に不安をもたらす。主観的不安がイスラエルの軍事行動の動機になっている。

 自衛戦争ではないから、敗北に終わっても、イスラエルの存在が危うくなることなどない。逆に、カラメの戦いはそれまで相手にしてこなかったパレスチナ・ゲリラの存在を戦闘の対象にしたのだからイスラエルが認めたことになる。イスラエルはPLOを新たなプレーヤーとしてパレスチナ問題に登場させ、ヤセル・アラファトを中東におけるニュー・リーダーに押し上げる。

 1972年に第4次中東戦争が起きる。イスラエルの油断を突き、アラブ連合軍が先制攻撃を仕掛ける。けれども、アラブは奪われた領土の回復が主目的で、全面的勝利が望めないと承知している。イスラエルが核兵器を保有しているからだ。

 第3次中東戦争開戦から2日後の6月8日、東地中海のシナイ半島沖の公海上で、米海軍の技術調査艦リバティー号がイスラエル空軍機と魚雷艇から攻撃を受けている。乗員4名死亡、173名負傷という被害にもかかわらず、アメリカは事故と処理する。同号はイスラエルの核開発に関する情報収集を行っていたと現在では明らかになっている。イスラエルはこの機密を守るために同盟国の艦船を攻撃したというわけだ。

 第4次中東戦争も、苦戦したものの、イスラエルの勝利に終わる。これ以降、イスラエルはアラブと国家間戦争を行っていない。1978年、イスラエルはエジプトとキャンプ・デービッド合意を結ぶ。周辺国に核開発の動きがあると、イスラエルはその都度つぶしている。しかし、国家存亡の危機は事実上去っている。

 にもかかわらず、イスラエルは軍事行動をやめようとしない。1981年、イスラエルはPLO掃討を目的に、レバノンに侵攻する。75年からレバノンでは内戦が続いている。70年、国家内国家に成長することを危惧したヨルダンはPLOを武力で追放する。その後、PLOはレバノンに拠点を移すが、それを好まないキリスト教勢力との間で戦闘が始まる。イスラエルはこのマロン派に加勢する形で内戦に介入する。

 PLOはヨルダン軍に追い払われているように、イスラエルの存在を脅かす軍事力を有していない。しかも、PLOはレバノンでマロン派と戦火を交えているのであって、イスラエルに戦闘を挑んでいるわけではない。介入は明らかに自衛から逸脱している。

 第4次中東戦争の後、イスラエルの政党政治に大きな変化が生じる。建国以来、労働党系の政権が統治を担当してきたが、77年、リクードのメナヘム・ベギン内閣が誕生する。リクードは73年に右派政党が統合して結成され、占領地への入植の推進など膨張主義的傾向が強い。レバノン侵攻を決めたのもこのベギン内閣である。

 イスラエルの有権者の多くは長らく労働系のイデオロギーや政策を支持している。右派政党の主張は世論の共通理解になり得ていない。ところが、国家存亡の危機が去ると、膨張主義が有権者の間に浸透し、世論が分かれていく。「ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです」(ジクムント・フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』)。

 82年、PLOはチュニジアに亡命する。しかし、イスラエル軍は駐留を続ける。イスラエル国内で、兵士を含む市民が反戦運動を始める。それは、自国の軍事行動に初めて大規模に異議が申し立てられた出来事である。これまでイスラエルは自衛のため存在を脅かす敵と戦ってきたが、今回の介入に大義がない。存在を認めない敵国との自衛戦争という共通理解があってイスラエルのユダヤ人はまとまっている。レバノン介入はこの分かち合いが成り立たず、国内世論は分裂する。85年、労働党系のシモン・ペレス内閣の下、イスラエルはレバノンから撤退する。

 国民皆兵のイスラエルでは、軍功によって国民的英雄となった将軍の政治家が和平を推進する傾向がある。イツハク・ラビンがその典型である。しかし、ヨム・キプール戦争以降、こうしたタイプの政治家が登場しない。対テロ戦で功績を挙げるのは特殊部隊である。彼らは、秘密主義の下、少数精鋭で行動する。国民的に英雄視されて政治家に転出しても、将軍と違い、社会に幅広く訴える経験・能力に欠ける。エフード・バラクのように、和平の意義を国民に納得させきれない。それは政治家の人材難ももたらす。戦争がなくなったため、皮肉にも、和平推進の軍人政治家が現われず、右派が恐怖を扇動、世論の右傾化が進んでしまう。

 このように第3次中東戦争の勝利以降、建国以来、イスラエルのユダヤ人の間で共有されてきた理解が徐々に崩れている。レバノン内戦からは軍事行動をめぐって国内世論も割れ、しばしば対立している。周辺国に押しつぶされてしまうかもしれないという国家存亡の危機は過ぎ去っている。客観的な脅威が減るのに反して、主観的な不安が増え、右派の主張が世論から支持される。まとまれる共通理解が崩れ、不安を共有した主観的な同胞意識のナショナリズムで固まろうとする。今日のイスラエルの右傾化はこうした経緯の延長で進んでいる。

 最後にスピノザからフロイトに至るまで、かれらはすべて究極的な人間のつながりを確信していた。それはかれらのユダヤ社会に対する態度の中にもみられる。われわれは今、人間性を信じたこれらの人々を、血にまみれた現代の霧を通して回想するのである。その霧はガス室(アウシュヴィッツ等の処刑の部屋)の煙である。どんな風が吹こうともその煙をわれわれの視界から追いはらうことはできない。これらの「非ユダヤ的ユダヤ人たち」は本性楽天家であった。そしてその楽天主義は今ではもうわれわれの手のとどかない高みに位している。
 私がその遺産をいま論じている偉大な革命家たちのほとんどは、その時代ばかりでなく、われわれの時代の究極的な解決を民族国家の中には見ておらず、インターナショナルな社会の中に発見しようとした。ユダヤ人であったかれらがこの思想の先駆になったのは当然であろう。なぜならすべてユダヤ、非ユダヤの伝統主義や民族主義を越えて自由になったユダヤ人ほど、平等な人類の国家を越えた社会を説く資格のある者は外にないからである。
 だから私はユダヤ人も他の民族とともに、「一民族のための国家」などというものが究極的には妥当性を欠いたものであることを自覚し--あるいはもう一度再認識して--、かつてユダヤ的なるものを超越したユダヤ系の天才たちが残した倫理的政治的遺産にたちかえることをのぞんで止まない。それは普遍的な人類の解放というメッセージに他ならない。
(アイザック・ドイッチャー『非ユダヤ的ユダヤ人』)
〈了〉
参照文献
アイザック・ドイッチャー、『非ユダヤ的ユダヤ人』、鈴木一郎訳、岩波新書、1989年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?