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ハロー、レーニン!(3)(2007)

3 帝国主義と革命
 『なにをなすべきか?』に帝国主義の本質が記されているわけではない。それは『資本主義の最高段階としての帝国主義論』(一九一六)を待たねばならない。同志レーニンはジョン・ホブソンとルドルフ・ヒルファーディングの共著『帝国主義論』(一九〇二)に影響され、この作品を書いている。独占・金融資本・資本輸出・国際カルテル・世界の領土分割といってキーワードは彼らからの借用である。

 従来の正統マルクス主義の見解によれば、資本主義が進展するにつれ、その矛盾が抜き差しならない事態を招き、覚醒したプロレタリアートが革命を通じて体制を打倒し、権力を奪取する。プロレタリアートは資本主義の矛盾を一身に背負っている。彼らが蜂起せずして、資本主義の矛盾が解決することはない。最も進んだ資本主義国において、最も革命の起きる可能性が高い。

 けれども、第二インターナショナルの体たらくを見た同志レーニンはそれを転倒する。帝国主義段階に入った資本主義国において、自然発生的なプロレタリア革命など到来しない。資本主義が十分ではない遅れた国において最も革命が勃発しやすい。それだけではない。そこでは革命を必要としている!

 プロレタリアート独裁はプロレタリアートの「指導」の下によるそれ以外の階級との同盟である。しかし、ロシアを含め遅れた国々では、その肝心のプロレタリアートはいまだ十分にいない。新たな体制を打ち立て、プロレタリアートを生み出し、彼らが将来的にその体制を担う必要がある。プロレタリアートが不十分なのだから、護民官たる党が率先しなければならない。プロレタリア革命はプロレタリアートによる革命ではなく、プロレタリアートを生産するための革命である。

 福井憲彦は、『近代ヨーロッパ史』において、一八四八年に欧州各地で頻発した革命を総括して次のように述べている。

 この一八四八年のさまざまな運動も、いずれも最終的に目的を達成したものはなかった。運動を推進した人びとの政治変革や社会変革の夢は実現しない。運動が革命として成功し、政治権力を担ったとしても、それは一時的な状態にすぎなかった。
 しかし、これらの運動によって、メッテルニヒが亡命を余儀なくされたことが象徴的に示しているように、ウィーン体制はもはや維持できるものではないことがあきらかになった。民衆階層を含めて、国民の政治的同意をいかに取りつけて、換言すれば世論をいかに味方につけて、政治を運営できるかが大きな問題であることを、多くの支配者は認識せざるをえなくなったのである。したがって世論を誘導しようとする姿勢もとられるようになる。
 この一八四八年のさまざまな運動の展開を通じてはっきり浮上してきた問題は、貧困や住環境などの民衆の生活権とかかわる社会問題であり、労働者としての自意議の形成をともなう労働問題、であった。表現を変えれば、各種の社会主義的な主張が、政治の部隊に明確に姿を現わすようになる。社会主義運動や労働運動が無視できない政治勢力として、ヨーロッパの政治をめぐる状況の中に位置してくるのである。
 また、国力を強化するためには、経済の近代化を追及することが不可欠であることも、明確になる。すなわち工業化の推進であり、国内市場の整備であり、それらの核となるべき都市の整備である。アーバニズムという考え方や表現が、じきに姿を現わしてくる。保守反動にたいして政治体制の変革を求める自由主義、共和主義と,さらにそれに加えて経済体制の革命をも求める社会主義とか、微妙な関係を取り結ぶようになるのである。

 一八四八年、ヨーロッパ各地で反動的なウィーン体制を転覆する革命が頻発する。しかし、それらは頓挫し、ブルジョア的体制が出現するだけに終わる。革命はそれに期待した勢力の政権掌握にはつながらない。もっとも、権力者たちにとって、革命はトラウマとなっている。人民の声をないがしろにすれば、また革命が起こると社会主義的な政策を少し、いくつか、ほんのわずかとりこむ温情主義をとり始める。

 このときから今まで、革命は権力の座にしがみつくことしか頭のない腐敗しきった為政者を引きずりおろし、近代化を劇的に促進させるために起こされるのが常である。

 同志諸君、プロレタリアートの増加は農村の事情と密接な関係がある。近代的労働者階級が生まれるのは、人口が増加し、農村のあまった食い扶持を都市が吸収する流れができてからである。一九世紀初頭、ヨーロッパで、小麦の連作方法が発見される。それまで欧州社会は慢性的な食糧不足だったため、人口は微増にとどまっている。しかし、新しい方法により、穀物供給が大幅に改善され、人口が急速に増加する。農村から流入した人々が工業化が始まった都市で、工場や港湾の労働に従事するようになる。このようにプロレタリアートの増加には農産物の供給量の増大が不可欠である。

 サンクトペテルブルクも、一九世紀初頭、湿地の干拓によって土地が拡張されたため、アレクサンドル一世治世の間に、人口が倍増している。一九世紀後半に港湾施設が整備されると、産業も発達する。イギリスと比べると少数であるけれども、プロレタリアートがロシアにも現われ始める。

 こうして生まれた資本主義は成長していき、その最終段階の帝国主義へ到達する。同志レーニンは、独占及び帝国主義の段階にある資本主義の本質を解明し、その崩壊の不可避性を明らかにしている。帝国主義において、世界は帝国主義国家と植民地・従属国に二分される。そこで、帝国主義国は、外部では民族自決による解放闘争、内部ではプロレタリアートによる階級闘争の二正面作戦に追いこまれる。帝国主義体制を打倒するためには両者は共闘するほかない。民族・植民地問題は国際プロレタリア革命の重要な一環である。第一次世界大戦は、資本家階級の利益のために、労働者が敵味方にわかれて戦わされているのにすぎないの。帝国主義を打倒する革命だけが恒久平和をもたらす。従って、社会主義者は「帝国主義戦争を内乱へ転化する」べきである。

 帝国主義戦争を革命に至る内乱へと転換させるという提案は、同志レーニンのかねてからの持論である。日露戦争の際、一九〇四年に著わした『旅順の歓楽』において、日本の勝利を歓迎し、敗戦によるツァーリズム体制ロシアの崩壊を支持している。さらに、一〇年後の『戦争とロシア社会民主党』でも祖国防衛主義を批判している。

 同志諸君、今日、ナショナリストと言えば、右翼のことである。しかし、本来はそうではない。ナショナリズムはフランス革命の理念に由来する自由主義的国民主義を指している。ウィーン体制の時代には、政治的には、一八四八年革命に参加したような左翼に属している。植民地での民族解放運動は正統的なナショナリズムである。今、ナショナリズムと呼ばれているのは、正確には、ジンゴイズムである。

 保守主義や右翼は受動的な思想(もっとも、思想と呼ぶにはあまりにも体系性に欠けるが)にすぎない。もともと、保守主義は反フランス革命である。保守主義者たちは現状を盾にして、一昔前の急進派の主張をとりこみ、自由・平等・友愛の理念の矛盾を批判する。ただ、保守主義は理念に縛られないため、現状に対応しやすい。けれども、理念が欠落しているから、左翼への対抗としてのみその存在意義を示すことができない。この保守主義をイデオロギー化したのが右翼である。右翼は近代主義の一種であり、自説を強化するため以外には、近代以前へと遡ることはしない。左翼が近代を先導したのであり、左翼の弱体化は近代性への不信の現われである。保守主義や右翼はそんな左翼に依存している。

 歴史を大事にしようと言う人がいるが、ぼくも歴史が好きだ。歴史は、フランス革命とかロシア革命とかで、世の中が大きく変わったように描かれている。しかしながら、革命政府はまずい社会を作っているようなところがあって、保守主義者がなかなかいいことを言ったりもするが、復古派に与する気にもなれぬ。世の中が変わるのには、時代がそれを求めていることもあって、あとから考えると、革命派がそれなりに時代を代表しているとも言える。たぶん、革命派が革命の理念にこだわって無理をしすぎるのがまずいのだろう。新築を飾りたてて文化が身につかぬ家のようだ。
(森毅『改革の時代の時間感覚』)

 同志レーニンによるこのマルクス主義理論の読み替えの意義は大きい。なぜなら、一部の先進国ではなく、後進国や被支配地域においても革命が可能だという根拠を与えたからである、革命運動は労働者階級の解放のみならず、民族解放も含むはるかに幅の広い政治闘争となる(現代の反グローバリゼーション運動なども踏襲している!)。これによりマルクス主義は世界各地に浸透していく。

 帝国主義は未開の文明化というイデオロギーに支えられている。進んだ列強が後れた地域を支配することは人道的介入だというわけだ(史上最大の人道的介入はクメール・ルージュからカンボジアを解放したベトナムだろう。そんな意識はなかっただろうが)。レーニンはそれに民族自決と並ぶ対抗理念を提供する。レーニン主義は狭義の資本主義ではなく、広義の資本主義、すなわち帝国主義を最大の敵とする。マルクス=レーニン主義の誕生だ!あと欲しいのは成功例だけである。

 同志諸君、同志レーニンは無原則な日和見主義者でなかったと同じくらいに、頑迷な教条主義者でもない。「最も抽象的なものは最も具体的なものである」(『哲学ノート』)。真理は具体的なものの抽象から把握される。彼は、変化する状況に応じて、歴史上に自分自身を位置づけ、理論を磨き上げていく。

 ブルジョアジーは利害によって協力する。うまくいくのであれば、理念は二の次である。彼らは敵に体制を明け渡さないためなら、妥協する。他方、革命組織は理念に基づいて共闘する。この理念のためならば、利害は二の次である。権力も手にしていないのに、食い違ってしまうと自説に固執するあまり、分派闘争が始まってしまう。しかし、それこそ、敵の思う壺だ。

 ロシア革命はウィーン会議以来続いていた一九世紀流の力の均衡論の終わりを告げるものである。力の均衡は政治的・経済的・軍事的のつりあいによってのみ保てはしない。共通の利害、はっきり言えば、共通の敵がなくてはならない。当時の為政者たちにとって、それは革命勢力の台頭である。しかし、革命派が権力を奪取したそのときに、その考えは時代遅れとなっている。

 同志諸君、それを踏まえ、昨今の国際政治を言い表わす概念として「帝国」を使うのを躊躇する。むしろ、「コモンウェルス」が適当である。「コモン(共通)+ウェルス(財産)」はあまりにふさわしすぎて普及していない!

 同志レーニンは理念を生かしつつ、現実を見極め、したたかに、権力を掌握することに思案する。マルクス主義者として勝たなければならない。しかし、生きているうちに、革命を見ることはないかもしれないと弱音ともとれる論文も発表している。

 当時の帝政ロシアは、シロアリに食い尽くされて崩れ落ちる寸前の家ではない。第一次世界大戦頃、穀物輸出で潤い、金の保有量は世界第二位という豊かな国である。また、報道の自由も、英米ほどではないにしろ、認められている。瞬間的に体制がひっくり返るような決定的な要因はそろっていない。

 けれども、そのときが、まさにそう見通した際に、諦めかけた際に、同志レーニンとその仲間があずかり知らぬ際に、やってくる。


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