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阿賀北の夫婦(2019)

阿賀北の夫婦
Saven Satow
Oct. 05, 2019

「あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニソス的に然りと断言することにまで──、それは永遠の円環運動を欲する、──すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。
フリードリヒ・ニーチェ『権力への意志』1041

1 阿賀北の昔ばなし
 生まれた時から携帯電話が定着していた21世紀人には、それがなかった頃の人々の認知行動が想像し難いことだろう。時のめぐりの中で人の認識は変わるものだ。知るために、20世紀に青春時代を送った人に当時の話を聞いてみる。それによって、昔の映画やドラマ、マンガでどうして友人や恋人が喫茶店で待ち合わせているのかの理由も納得するに違いない。

 しかし、江戸時代のこととなると、そうはいかない。話を聞こうにも、その頃を体験した人はもうこの世にいない。

 手がかりの一つが昔ばなしである。それは言語的・道徳的規範を共有する共同体の中で継承されてきたものである。民衆の集合知識と言える。

 昔ばなしは世代間で語り継がれることで、愛情と信頼に基づくその絆を強化する。記憶に頼る口承であるから、それはライブであり、その都度、どこか違っているだろう。また、世代間となると、伝言ゲームのように、話が変わっていくこともあり得る。昔ばなしは時のめぐりの中で変動し続ける。。だ、規範を共有した関係の中で口承されている以上、どんなに変化があっても、それが反映していることは確かである。昔ばなしを通じて、そのため、かつての民衆の認識を知ることができる。

 もっとも、江戸時代は移動の自由が制限されている。なんとなくあちこちめぐり歩くことなど許されない。当時の人口の8割が農民身分であり、その多くは主に生まれ育った村落で一生を送る。この状況では、言語を始め地域差が維持されやすく、昔ばなしにも表われるだろう。

 それに関して興味深い事例がある。1957年に未来社より刊行された『越後の民話第一集まり』に所収された阿賀北の二つの昔ばなしがそうである。この本は水澤謙二編集『日本の民話3』に当たり、2015年に新版が刊行されている。

 その昔ばなしは『帯よし笠よし身なりわるし』と『勘五郎と烏』である。いずれも採録地は「岩船郡朝日村字釜杭」、話者が「阿部操」と記されている。どちらも個性的な妻を主人公にし、ユーモラスな夫婦仲を描いた物語である。超自然的存在・現象は登場せず、動植物が人間の言語を話すこともない。人間だけで展開される知恵の昔ばなしである。こうした設定の類似性により比較検討に適している。面白い話であり、テレビ番組『まんが日本昔ばなし』も映像化している。前者は『帯よし笠よし身なりわるし』として1989年4月8日、後者は『お花と勘五郎』として1985年8月31日にそれぞれ放送されている。

 採録地のデータは1957年当時の地名で、そこは現在の村上市釜杭(かまぐい)に当たる。新発田市にも釜杭があるけれども、このケースに関しては村上市の方である。

 新潟県中北部を阿賀野川が流れている。この日本海に注ぐ1級河川は阿賀野川水系を形成している。全長は200 km で日本第10位、流域面積 7.70平方 km で第8位である。その阿賀野川北部を新潟県では「阿賀北(あがきた)」と呼んでいる。今日、村上市は新発田市や岩船郡と共にこの阿賀北地域を構成している。

 先のデータにある朝日村は、2008年に岩船郡から離れて村上市と合併している。この朝日村は1954年に昭和の大合併の一環として、 舘腰村・三面村・高根村・猿沢村・塩野町村が合併して誕生する。ここは奈良県戸津川村に次ぐ日本で2番目に面積の広い村として知られている。

 釜杭はこの朝日村の旧館腰村に属している。飯腰村は明治の大合併によって生まれたが、その際、慌ただしい経緯がある。同村は1901年に長津村を吸収合併する。この長津村は3年前の1898年に誕生したばかりで、そこに釜杭村は笹平村や小揚村、柳生戸村らと共に含まれている。

 『帯よし』と『勘五郎』はいずれも夫婦仲をめぐる物語だが、内容は異なっている。ただ、そこに地域固有の認識が暗黙の裡にある。昔ばなしは民衆の口承文学なので、ディテールにこだわった読解よりも大づかみにそのエッセンスを捉える方が適している。言うまでもなく、話者が同一なので、その考えが入りこんでいることは否定できない。しかし、地域で共有される規範に則っていなければ、話は時のめぐりを超えて継承されてこなかったのであり、話者のバイアスを理由に全否定することは乱暴である。

2 『帯よし笠よし身なりわるし』
 『帯よし笠よし身なりわるし』は次のような昔ばなしである。

 昔々あるところに働き者の亭主と怠け者の女房の夫婦が暮らしている。夫が早朝から夕暮れまで野良仕事をしている間、妻は家でゴロゴロしている。帰って来ても食事の用意を女房がしていないので、亭主は2人分を作らなければならない有様だ。

 近世において庶民は苗字を持っていない。夫婦は同性か別姓かの議論以前に、そもそもそもそも姓がない。庶民には、そのため、「イエ」の意識が希薄である。

 当時、性別役割分業という制度はない。農家にあっては家族総出で野良仕事をするものだ。結婚によって男性は持参金と労働力を手に入れられるが、女性はその弱みを知っているので、全般的にかかあ天下だったと言われている。

 なお、武士身分では家政は家長の担当とされている。女は理に疎いから飯炊きくらいしかできないとされ、家長の指導の下、食事を出すものとされている。また、江戸の大名屋敷に詰める勤番武士は食事を自分たちで用意している。江戸時代の男性は高度経済性っ長期よりも料理ができると思った方がよい。

 夏祭の近づいたある日のことである。妻は祭に着るための新しい菖蒲帷子(しょうぶかたびらが)欲しくなる。そこで夫におねだりしたものの、自分で作ればいいと素っ気なく断られてしまう。その際、働き者と評判の隣の女房は菖蒲帷子を自作したと亭主は付け加える。

 菖蒲帷子は、菖蒲が示している通り、端午の節供から月末まで着た単の着物のことである。晒の布を紺地白に染めたため、「あうあめかたびら」とも言う。帷子は麻製の着物のことである。明和8年(1771年)、端午の節句の際、大名が江戸城本丸に登城する時、小千谷縮の麻裃の菖蒲帷子を着用することと定められる。小千谷縮は現在の新潟県小千谷市を中心に織られていた麻縮である。江戸中期頃には、庶民にも普及し、この話ではオシャレ着という位置づけである。

 怠け女房は甲斐性がないと亭主に腹を立てる。菖蒲帷子も要らないし、祭にもいかないとと妻は叫び、もっと働けと夫を家から叩き出す。そう啖呵を切ったものの、やはり祭りには行きたい。そこで、隣から菖蒲帷子を借りることを思いつく。

 女房は早速隣の家を訪れる。祭の話をしても、働き者の女房は遊んでいられないから行かないと素っ気ない。怠け女房はそんな隣に持っているきれいな菖蒲帷子を見せて欲しいとと頼む。働き者の女房は、噂通りの見事な菖蒲帷子を披露、寝る時間を割いて自分で作ったと説明する。怠け女房もそれを聞くと、貸してくれとは言い出せず、すごすごと家に戻っていく。もっとも、働き者女房は隣を怠け者と軽蔑しているので、着物を貸す気などさらさらない。

 夏祭の日、女房はなんとか新しい帯と笠を用意したものの、菖蒲帷子までの余裕はない。夫が帯や笠はよいとしてもその着物で行くのかと呆れると、妻はお前に甲斐性がないせいだと激高する。女房の物凄い剣幕に恐れをなした亭主は外に逃げ出す。

 女房はそのボロ着のような菖蒲帷子を着て祭りに出かけていく。しかし、大変な女だが何とかならないかと心配した亭主は先回りをし、高い木の上に登り、女房を待つことにする。

 女房は上機嫌で、踊りながら歩いてくる。そんな調子で木の下を通りかかると、亭主は「帯よし、笠よし、身なりわるし」と鳥の鳴き声を真似た声を出す。それを耳にした女房は鳥にさえ笑われたのだから祭に行けないと恥ずかしくなってしまう。祭でみんなに笑われると堪らず家に逃げ帰る。その姿を見た亭主はこれで少しはクスリが効いただろうとホッとして木から降り、畑仕事に向かう。

 夕方、亭主が畑から家に戻ると、女房が食事の用意をして待っている。夫が祭の様子を尋ねたが、妻は賑やかだったと口ごもる。亭主が来年の祭には自分も参加するかなとつぶやくと、女房は一緒に行こうと笑顔でうなずく。

 翌朝、女房は亭主より早く起きて食事を用意し、先に畑仕事に出てゆく。出がけの女房に起こされ、家に残された亭主は、変わりようにクスリが効き過ぎたと戸惑う。

 それからの女房はたいそうな働き者になる。次の年の祭に夫婦一緒に新しい菖蒲帷子を着て行きたいと思ったからだ。亭主は女房のそうした姿によかったという心持を覚える。

 『帯よし、笠よし、身なりわるし』はこのような物語である。話の中で言及される祭がどこの神社のものなのかは定かではない。釜杭には神明宮があるので、ここの祭とも推測できよう。この神社は三面川の支流長津川の左岸の山間部にある。建仁元年(1201年)の創祀の神明宮と永禄年間(1558~69年)創祀の八幡大神(誉田別尊)が合殿で祀られている。

3 『勘五郎と烏』
 次は『勘五郎と烏』である。

 昔々あるところに百姓の夫婦が住んでいる。二人にはお花という娘がいる。野良仕事をしている合間にも、お花のことを心配している。気立てのいい子だが、物忘れがひどい。カラスが鳴いたら飯を炊くようにと何度教えても忘れてしまう。野良仕事から戻った夫婦が飯炊きや水くみを忘れずにやったとほめたのもつかの間、ニワトリに餌を与えることが抜けているという有様だ。

 ある日、お花は村一番のしっかり者の若者に見初められ、嫁入りが決まる。嫁ぐ日、父親は物忘れしないことを忘れないようにと娘に言って聞かせる。こうしてお花は結婚したが、両親は物忘れをしていないかと毎日気が気でない。

 1ヶ月後、両親が家に帰ると、炊煙が昇っているのを目にする。嫁に行ったお花が戻っている。2人が分けを聞くと、娘はもう帰れないと泣き出す。忘れてはいけないと焦れば焦るほど、お花は悪循環に陥る。水汲みや飯炊きなど家事を毎日忘れる。その度に今度こそ忘れないと誓うが、夫はとうとう腹を立て、妻を家から追い出してしまう。

 江戸時代は離婚率が高い。自由恋愛が認められず、周囲が決める見合い結婚で、相性の確認などの準備期間がほとんどない。庶民の場合、時期や地域で差があるものの、それはおおむね4%である。武士の場合はさらに高く10%に及ぶ。離縁された女性も決して珍しくはない。反面、再婚率も高く、庶民では約50%である。

 家に戻って以来、お花は笑わなくなる。一年が経ち、途方に暮れた両親は和尚に相談に行く。事の次第を聞いた和尚はよい試案があると二人に語る。数日後、和尚は家を訪れ、お花を勘五郎の嫁にしてはどうかと持ちかける。その名前を耳にした途端、両親は驚き、心配になったが、和尚の勧めということで、縁談を承諾する。

 結婚して勘五郎は大喜びしたが、お花は相変わらず笑わない。

 両親が不安に思ったのも無理はない。勘五郎にはしっかり者という評判はない。それどころか、お花以上に忘れん坊である。

 畑に種蒔きに出かけても、鍬を始め種や弁当を忘れて仕事にならないと何度も戻ってくる。そうしている間にカラスが鳴いて陽が暮れてしまう。結局、何もできず、勘五郎はお花に明日にすると言う。それを聞くと、お花は突然笑い出す。その姿を目にした勘五郎は嫁入りしてから初めて笑ったとお喜びをする。お花は涙を流しながらいつまでも笑い続ける。お花はそれ以来、勘五郎を三国一の亭主と和尚に感謝し、幸せに暮らしたと言う。

 『勘五郎と烏』はこのような物語である。話の中で言及される寺がどこなのかは定かではない。ただ、和尚が耕雲寺に関連しているのではないかと推測できよう。この村上市門前にある曹洞宗の寺院は、名僧や学層を数多く輩出してきたことで知られる。耕雲寺の創建は応永元年(1394年)で、揚北衆(阿賀北衆)の菩提寺の役割を果たした時期もある。阿賀北衆は鎌倉時代から戦国時代にかけて阿賀北地域に割拠した国人豪族である。知恵を授けてくれる僧侶と言えば、この地域ではこの寺と関連する人物となるだろう。

 なお、お花が口にする「三国一」は唐(中国)・天竺(インド)と日本を合わせた中で一番ということで、現代的に言うと、世界一の意味である

 この物語に限らず、昔ばなしはしばしば「幸せ」の提示によって幕を閉じる。この「幸せ」は共同体の規範に沿ったよい生き方を指している。前近代は共同体主義であるから、個人に価値観の選択が委ねられていない。価値観は共同体内では一元的である。それに従った生き方をした人は幸せであり、そうでない人は不幸せだ。昔ばなしを語り手も聞き手も同じ共同体に属しているから、その規範を認知している。「幸せ」が何かを明示化する必要はない。

4 二つの夫婦
 『帯よし』でも『勘五郎』でも妻の認知行動が変わり、夫婦が真に仲よくなる。その際、周囲は暴力を帯びた強制ではなく、知恵による納得を用いている。知恵の有用性を教えてくれる物語である。

 ただ、両者には違いがある。『帯よし』の女房が怠け者から働き者に変わるのに対し、『勘五郎』のお花の忘れっぽさはそのままである。

 忘れっぽさは気質であって、それを変えることは難しい。現代的に見ると、知的障碍もしくは発達障害の可能性も推測できる。しかし、物忘れの多さは道徳的規範に反していない。一方、怠惰は習慣である。もちろん、心身の疾病が原因の場合もあるが、それであったとしても、改善の可能性がある。それに、怠惰は道徳的規範にそぐわない。勤勉が望ましい。この規範との関係によって二つの昔ばなしの違いが生じる。

 物忘れがひどい妻だから、しっかり者を夫にすればよい。しかし、こうした相互補完はお花の最初の結婚では機能しない。夫は妻の忘れっぽさを補うのではなく、自分と同じようにしっかりとすることを要求する。できる人はできない人の気持ちがわからない。それは両親も同じで、努力すれば物忘れはしなくなるものだと信じている。こうした認識が成功体験の乏しいお花を追いつめ、笑いを奪う。

 しかし、和尚は逆転の発想をする。家事を忘れず滞りなく行うことは夫婦生活において目的ではない。できない人にできないことを要求してもよいことはない。必要なのは否定ではなく、肯定だ。お花にはそれ以上に忘れん坊の勘五郎が合っている。勘五郎によってできないというあるがままの自分を認める自尊感情が育まれ、お花は笑いを取り戻す。

 勤勉さも同様である。勤勉は美徳であるけれども、『帯よし』は隣の女房に必ずしも好意的ではない。寝る時間を割いて見事な菖蒲帷子を作ったものの、それを祭に着ていくつもりがない。そもそも隣の女房は祭に行く気がない。勤勉は確かに美徳であるが、祭に参加しないのは共同体的規範上好ましくない。

 前近代は、近代と違い、個人主義ではない。共同体があって個人がいるという発想である。個人は共同体で共有されている価値観に従わなければならない。規範の秩序も個人よりも共同体が優先される。祭は共同体の絆を強める行事である。勤勉は美徳であるとしても祭への参加という共同体の規範より優先順位が低い。祭に参加せず、勤勉を追求する態度は共同体にとって好ましくない。

 主人公の女房は怠惰であっても、明るく社交的で、祭に参加したいと思って居る。ゴロゴロするのをやめて稼ぐようになったのは新しい菖蒲帷子を着て祭に参加するためだ。共同体の行事を個人の習慣より優先している。しかも、妻は夫婦一緒にペアルックで祭に参加したいと思っている。祭に加わり、絆を強め、喜びを分かち合う。勤勉を自己目的化している隣の女房よりも共同体にとって望ましい。

 二つの昔ばなしには笑いが扱われている。笑うことは喜びにつながる。これは誰かと分かち合う社会的感情である。自分が誰かと共にいることが喜びであり、それがあるから人は笑える。二人の妻は話の最期の方で夫との信頼を確かめ、笑う。

 他方、笑われることは自分が分かち合いの外にいることを意識させる。かつて子どもに共同体の規範を守るように諭すために、「そんなことをしていると世間から笑われる」と大人は説いたものである。笑うことが社会的分かち合いとすれば、笑われることはそこに入っていないと告げられたようなものだ。笑われることは共同体の規範に沿っていないという自覚を促す。だから、『帯よし』の怠け女房は鳥に笑われたと思うと恥ずかしくなって家に逃げ帰ってしまう。

 二つの昔ばなしの亭主はどちらも穏やかで、やさしげ、妻に大声を上げることもない印象がある。『帯よし』の女房は怠け者で、感情の起伏が激しい。しかし、亭主は怒鳴るどころか、強く言い返すこともない。また、『勘五郎』の勘五郎はおおらかで、失敗してもくよくよしない。こうした包容力のある夫の姿はかつての阿賀北地域における好ましい男性の特徴かもしれない。

 『帯よし』と『勘五郎』において見落としてならない共通点がもう一つある。それは循環である。いずれの昔話でも、登場人物は目的を持って家を出るが、戻ることになり、それが達成されない。『帯よし』の女房は隣から菖蒲帷子を借りようとするが、うまくいかず、祭に行こうとしたものの、途中で引き返している。また、『勘五郎』のお花も嫁入りしたけれども、1ヶ月で家に舞い戻っている。

 ところが、この循環が繰り返されると、その意味が否定から肯定へと変わる。勘五郎は家と畑の間をぐるぐる回っているだけで、結局、何もできずに陽が暮れてしまう。しかし、この循環がお花に笑いを取り戻させる。目的を達成できないこのめぐりが待ち望んでいたものをもたらす。また、『帯よし』でも夫婦による新たな循環の始まりを予感させる。

 それこそが日常というものだろう。日常生活は同じようなことの繰り返しである。無事にその循環が続くことにより、幸せがもたらされる。日常性の意義は今も同じだ。。時代がめぐっても変わらぬこともある。
〈了〉
参照文献
坂井素思他、『格差社会と新自由主義』、放送大学教育振興会、2011年
杉森哲也、『日本の近世』、放送大学教育振興会、2013年
水澤謙一編、『[新版]日本の民話3  越後の民話第一集』、2015年
「離婚・再婚率は今より高く『三行半』は愛情だった!? 江戸時代の結婚・離婚事情」、『かみゆ歴史編集部』、2015年6月21日 8時00分更新
https://news.mynavi.jp/article/20150621-edo/
「旧朝日村釜杭の神明宮(にいがた百景2)」、『Niigata-u.com』、2008年7月.5日更新
http://www.niigata-u.com/files/ngt02j00.html
『小千谷の織物』
http://www.ojiya.or.jp
『新潟県:歴史・観光・見所』
https://www.niitabi.com/
『まんが日本昔ばなし〜データベース〜』
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php


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