二十八歳、はじめてのフルマラソン


冒頭から暗い話で申し訳ないが、わたしはこころがだいぶ弱い。

特に何かがあったわけではないが、ここ数ヶ月どうしようもない希死念慮に苛まれることがあり、とにかくしんどい時期だった。食べもせず動きもせず横たわっていたら元々肥満体であるという理由もあるが体重が4キロ落ちた。

そんな状態だったので今年の4月(調子の良いとき)に申し込みをした富山マラソンの出場は見送る予定だった。ここ数ヶ月ランニングなんて一切していなかったので、参加しても周囲に迷惑をかけるだけだと思っていた。

が、今日2023年11月5日。
なんと富山マラソン、42.195kmを完走してしまった。この結果には自分が一番驚いている。

ことの経緯として一週間ほど前、他県のマラソン大会に出場してきたという友人から「フルマラソンめっちゃ楽しかった!」と話を聞いてしまったのだ。自分も実は富山マラソンのエントリーはしているが、練習できていないし最近体力も落ちてきているので欠場する予定だと話すと、もったいない!20km走れるなら絶対いけるよ!と言われてしまった。

わたしは強いストレスがかかると、精神的な苦痛を肉体的な苦痛で紛らわせようとする癖があり、東京に住んでいるときよく自宅のある高円寺から東京駅まで20kmほどの距離を真夜中に走って、始発の電車で帰ってくる遊びをしていた。青梅街道をまっすぐ走っていたので、歌舞伎町あたりに差し掛かるとホストクラブで働いていると思しき男性から「お姉さんファイト〜♪」と揶揄われていた。なので20kmくらいは今でもジョギングペースであれば走れるだろうと思った。

つい一週間前まで、参加する気を完全に失くしていたが、友人の励ましにより、まあエントリー費用も安くなかったし試しに出てみようかなと前向きな心持ちに変わった。

前日に富山市の会場まで受付をしにいくと、なんだか周りはみんな締まった体型をしていて明かに見劣りしている自分と比較してしまい、めちゃくちゃ不安に襲われた。本当に走り切れるのだろうか、トイレに行きたくなったらどうすれば良いんだろう、担架で運ばれることになったらどうしよう。そんなことをぐるぐると考えていたら、ろくに眠れず朝を迎えてしまった。

当日の朝は最悪なコンディションのまま自宅の最寄駅からスタート地点の高岡駅まで電車で向かった。携帯のバッテリーは満タンのまま挑みたかったので、電車の中ではフルマラソンに興味を持ったきっかけでもある小説家 角田光代さんのエッセイ「なんでわざわざ中年体育」を読み直しながら向かった。

角田さんは33歳で大失恋をし「強い心は強い体に宿るはずだ」と信じて、それからボクシングジムに通ったりマラソンを始めたりと精力的に運動をされている。このエッセイの中にある那覇マラソンのエピソードが特に印象的で、沿道の賑やかな応援やコースから望める広い海と空の情景が参加したこともないのに強く記憶に残っていた。わたしは角田さんのエッセイの影響により東南アジアのバックパッカー旅をしたり、猫と暮らす決意をしたり、とにかく多大な影響を受けているので、フルマラソンもいつかは出てみたいと長年思っていたことではあった。

会場の高岡駅に着くと、フジロックばりの賑わいで人が溢れかえっていた。こんなに富山に人がいたのかと驚いたが、どうやら富山県民だけではなく全国からマラソン愛好家たちが集まっているようだった。

朝早くあまり食欲がなかったが、エネルギーが必要だと思いローソンでわかめご飯おにぎりを買って、会場についてからモソモソと食べた。スタートの40分ほど前には指定されたレーンに行き、手持ち無沙汰だったのでインスタのストーリーズを更新したりしていた。すると隣にいたお兄さんから声をかけられた。
「あの…ほっぺにご飯粒ついてますよ」
ああっすみません。もうダメだ。こんなにボケーっとしてるなんて先行きが不安すぎる。なんで参加することにしたんだ。と帰りたい気持ちでいっぱいになった。


午前9時、ピストルの音と共にスタートした。開会の挨拶をした女性マラソン選手の「頑張ってくださいねー!Foooooo!!!!!!!」とテンションのブチ上がった声が拡声器を通じて会場に大きく鳴り響いていて、周りの参加者たちと思わず笑ってしまった。

参加を勧めてくれた友人からは「周りのペースに流されず自分のペースを守るように」と言われていたので、後ろから来るミッキーミニーのコスプレをしている老夫婦に先を越されても動揺せず、ゆっくりと1km7分くらいのペースを守ってしばらく走った。

富山に移住してからトレーニングをする時は、よく10kmほどの距離を走っていたのだが、こんなに10km過ぎるのが早く感じたのは今日がはじめてだった。沿道からの吹奏楽部やダンス部の応援、老人ホームから車椅子のまま出てきたおばあちゃんたちが手を振る様子、ジャニーズコンサートで使われるようなギラギラとした名前入りのうちわの応援。全員が笑顔で「頑張れ〜」と声をかけてくる様子につられて、こちらも思わず笑顔になってしまう。
こないだのキングオブコントを見ても一度も笑えなかった自分が、いま口角を上げて笑っている。それだけでなんだか少し泣きそうになってしまった。

10kmを過ぎると川沿いをしばらく走るコースになる。ここからは沿道からの応援の数も減り、少し落ち着き単調な道が続く。空が広いなとぼんやり晴れ晴れとした青空を眺めながら走っていると、右手から「どうも〜!星野源で〜す!」のイントネーションで「どうも〜!陽気な酔っ払いで〜す!」とビールを片手にしたおじさんの声援(?)が聞こえてきた。将来はランナーではなくあのおじさんになりたいと心から思った。そしてその声援に対して「最高〜!」と返事をしているお兄さんもいて、もうめちゃくちゃにハートフルな状況にまた涙しそうになった。

20km地点からだいぶ足が重たくなってきた。新湊大橋という海沿いの大きな橋を渡るため、少し長い登り坂が続く。手前の給水・給食所ではますずしや天むすが配布されていたが、当然食べる余裕なんてなかった。この辺りでほとんどの人が歩き始めていたので、つられて登り坂の間はしばらく歩いた。新湊大橋は車で通ったことは何度かあったが、運転している最中にあまりじっくりと景色を眺めてことはなかったため、橋からこんなに綺麗に海が見えるなんて知らなかった。この景色を見れただけでも、富山マラソンに参加した価値があったかもしれない。富山で見たあらゆる絶景の中で確実にベスト3に入る。橋の中間を越えて、下り坂に変わったタイミングでまた走り始めた。この辺りでふくらはぎが痛み出して、ここからは体力勝負というより、痛みとの戦いになってきた。

25〜35kmの間はほぼ田んぼの中を走る単調なコース。気温は23度を超えていて11月にしては異常なほどの暑さ。顔や腕には塩の結晶ができてベタベタしていた。歩いたり走ったりを繰り返しながら、とにかく足を前へと進める。苦しい、疲れた、という感情よりも、とにかくふくらはぎの痛みにいかにして耐えられるかの耐久レースだった。はじめの10kmは口角を上げて走っていたが、この時はあまりの痛みに口がへの字になっていた。途切れ途切れではあるものの沿道の心強い声援は続いていた。「今日の生ビールは最高だよ!」と書かれたうちわや看板を何度か見かけて、その度に「生が待ってる生が待ってる」と自分を鼓舞してペースを上げて走った。

35km辺りを過ぎると、ゴールがだいぶ近づいてきたように思えた。もう走らずに歩いても制限時間内には間に合うと思って、まわりの人に合わせて歩いた。ゴールが近づくにつれてまた沿道からの応援が華やかになっていった。残り2kmほどになったところで、鳴子を鳴らしながらZARDの負けないでを歌っている集団に励まされ再び走り始めた。
ゴール地点である環水公園が見えてきたとき、自分よくやったよ…と感極まって涙を浮かべてしまった。

正確な時間は分からないがおよそ6時間でゴールを迎えることができた。


足の痛みはとにかく辛かったが、家でひとり鬱々としている時間よりははるかにマシだったし、こころから参加して良かったと思えた。
フルマラソンを走り切る気力や体力があるなら、まだ自分は大丈夫じゃんと自信を得ることもできた。友人が言った「フルマラソンめっちゃ楽しい」の意味が参加してはじめてわかった。生きててよかった。

気づけば帰りの電車で次の那覇マラソンのエントリーについて調べていた。




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