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酔いどれ雑記 213 しんじあい

あれを始めたのは多分、幼稚園の頃だったでしょうか。鏡に映る自分の顔を見て、自分の名前を心の中で唱えるーーその'儀式'を私は「しんじあい」と名付けていました。

何故「しんじあい」なのかは覚えていません。おそらく漢字で書くと「信じ合い」だと思います。そして何故そんなことをしていたのかも覚えていないのですが、小学校中学年くらいまでその「しんじあい」を時々していました。

親にも教師にも誰にも理解されない、肯定されない自分の心や存在。自分が在ることの不思議と恐怖......それを自分で確認するためだったのでしょうか。或いは自分が自分でいるためのまじないだったのかも知れません。

「しんじあい」のことはずっと何十年も誰にも話したことはありませんでした。話そうと思ったこともなく、けれど知られたくないというほどのものでもなかったのですが。30過ぎて知り合った方に何となくその話をしたら

「そういう違和感を持って生まれてしまう人って稀にいるんですよね......私もそう日々感じていますから。同じです」と。

これを聞いて私は「そうか、違和感か......」と納得したようなそうでないような気持ちになりました。けれど「同じです」に妙な安堵を覚えたのです。

名前を付けられるということはつまり呪いをかけられることだ、ってのは誰の言葉だったでしょうか。自分に付けられた名前、貼られたレッテル......自分の名前を呪文のように唱えていた子供時代の私は呪いをかけられていたのでしょうか、それとも......?

父が付けたという、私の名前。機能不全家族育ちの方は自分の名前を気に入っていないという方が多いような気がしますが、私は自分の名前が大好きです。父親が名付けたからではなく、たまたま気に入っているだけのことなのですが。ああ、これは解けない呪いなのでしょうか?

私の母は死ぬ間際、旧姓をフルネームで呟いていました。呆けた老女は童女にかえり、もうすぐ母は死ぬんだろうなと感じました。文字通り盲目となった母は何を見ていたのだろう?