見出し画像

使いかけた一枚のティッシュ


先日、人生初のカウンセリングに行ってきたわたくしです。ここに詳細を書くわけにはいかんので、なんか雑感みたいなものをぽつぽつと......。

卓上にティッシュが置いてあるのを見るのはこれで何度目だろう。弁護士、行政、これまでに色々な相談に行ったけれどそのほとんどに置かれているーー書くのも野暮だけれども、その主な使用用途は涙をぬぐうため。わたくしは使いませんでした。たまたま涙が出なかったから。出そうになったけれども。けれど今泣いているのはどうしてなのでしょう。

家族の話を訊かれて、父親がしていた職業は?と問われた。
「職人です」
「職人?どんな?」
「○○ってご存じですか」
「えっと......」
「例えばこんなものを......」

ここでは父の具体的な職業は伏せます。いわゆる職人というと建設関係か、芸術関係?と思われることが多いのですが、そのどっちでもない。正確さが要求される点、装飾に関係がある点ではどちらにも共通しているけれども。

わたくしは父の仕事を誇りに思っていました。もっと言うと父のことは好きとか嫌いとか、ちょっとそういうことじゃないんです。母と同様。虐待されていたのにおかしいと思いますか?

小3の頃、町の工場に見学に行きました。地域でも大きな規模の。正しく父と同じ業種の工場。いわゆる3K仕事(きつい、汚い、危険)から危険だけを除いた父の仕事。今はもう機械化されてほとんどありませんが、昭和の末期、まだ町にはその種の工場が町に沢山ありました。中には「△△(経営者の苗字)輸出××(職種)工場」と堂々と書かれた看板のある工場も近くにありました。輸出専門、っていうところを強調していたところに時代を感じさせます。ああいう業種は横のつながりが強かったですから、別の工場の人が父を知っているなんてこともザラでした。

放課後、アポなしで社会見学と称して班の皆でそのうちのいくつかの工場を訪れたことがあります。そして工場の人も小さな見学者たちを温かく迎えてくれて、お菓子やジュースを出してくれました。わたくしが「実は私のお父さん、◇◇で働いているんです。南って言うんです」と言うと「え、◇◇の南さん?南貞夫さん?あの小柄な。あらら、南さんのお嬢さんだったの~」と更に歓迎してくれました。父は家ではどうかしている人でしたが、仕事は真面目にしていて(当たり前かもしれませんが)、それなりに人望があるようでした。

級友は見学が終わった後「南に感謝、南に感謝!」と喜んでくれました。いじめにずっと遭っていた小学生時代、唯一小3の頃は楽しく過ごせた時でした。3学期に担任(ものすごく素晴らしい先生)の産休で代わりの教員が来るまでは......。

当時、学校で『歩いて行こう』という歌(作詞:きくよしひろ 作曲:小宮路敏)を音楽の時代に習いました。NHKのみんなのうたの曲で、歌集にも掲載されていました。その曲の2番目、

みんなが働く 大地じゃないか

※法的に引用の要件を満たしていると思いますが、問題がございましたらお知らせくださるとありがたいです。

という部分をわたくしは誇らしげに歌ったのをはっきりと覚えています。いかにも高度成長期の昭和の歌詞ですが、思い出すだけで涙が出てきます。

わたくしは父に対し母同様、複雑な感情を抱いていますが、決して父の職業を蔑んだことは一度もありません。天地神明、閻魔様に誓って。男も女も、老いも若きも汗にまみれ、汚れて臭いが付く仕事。木造モルタルの1Kボロアパート住まいだった我が家に、持ち家一軒家でも当時はなかった家もあった冷房を父が月賦で買ったのは(お若い方には信じられないかも知れませんが、安価なものでも当時の価格で16万円もしました。暖房機能はなしです)、父が夏でも冬でも蒸気で暑くてたまらない工場で働いていたからかも知れません。

寺院がいちばん聖なるゆえんは、そこが人々の共通して泣く場所だからである
スペインの哲学者、著作家であるミゲル・デ・ウナムーノの名言ですが、寺院は置かれた一箱のティッシュと同じ役割でしょう。19世紀末のパリのカフェで飲む一杯のアブサンや珈琲同様。

父が働いていた工場は、わたくしが成人した前後にバブル崩壊のために倒産してしまいました。そして社長は......自殺してしまいました。社長はわたくしが小学生の頃、従業員の皆とその家族をマイクロバスを借りて海や山に連れて行ってくれて、わたくしに沢山の本を下さいました。ライオンズクラブにも入っていて、よく日に焼けて精悍な顔つきをした、優しい目を持ってて、いつも笑っていた頼もしい方でした......。「まさかあの人が」とはよく自殺した人に対し言われる言葉ですが、当時のわたくしにとってはまさに「え、あの社長さんが?」という感じで絶句しました。よく従業員の皆で行った海の近くで亡くなっているのを発見されたそうです。それを聞いたわたくしは父に(当時はもう一緒に住んでいませんでした)お線香をあげに行きたいと言ったら「余計なことをするな」と言われてしまいました。もう住宅兼工場は他人の手に渡り、遺された奥様とお子さんは別の場所に住んでいると。場所を教えてと言っても「俺、知らねぇよ」と。わたくしは子供の頃から父に何を言っても無駄だと知っていたため、ほとんど反抗することなどなかったのですが、葬儀すらも出席せず、お線香をあげに行ったこともないと言う父に「はぁ?いくら気まずいって言ったって、行くのが筋じゃないの?あんなにお世話になったのに!」と思わず声をあげて怒りました。工場が倒産しかかっても従業員には遅れず給料をくれ、退職金まで出してくれたのに......。あの時ほど父を軽蔑したことはありません。あの父にはまるで悪気などない、だからこそ恐ろしいということを理解するには当時のわたくしは若すぎました。

父の職業をカウンセラーに問われ、真っ先に思い出したのがあの社長さんの笑顔です。学校帰りに通りかかると、外から見える試験場と呼ばれる材料を調合する部屋によく社長さんがいて、頭を下げるとにっこり笑ってくれました。