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ボルサリーノにタンゴパンプスー私の性自認、性的志向、ナルシシズムのこと 20

このマガジン、こんなに色々書くつもりなかったんだけどなぁ。自伝をさっさと書き終えたいのに、ここにこ書かずにいられないことが次々と思い浮かんでしまう。それだけここ1年くらい、ネット上とはいえ人間と交流を再開して色々なことを考えこんだしてしまっているということだ(私はご存知の通り、もうかれこれ10数年、まともに人と関わってなかったのだ)。

私って全然聴き上手じゃないんだが、昔から色んな人から打ち明け話をされることが多かった。尤も、相談事やただ話を聞いてほしいのではなく、感情のゴミ箱にされたり、秘密を共有させては私の反応を窺ってきたり、共犯者にさせられることもよくあり......。

私は多分、なんか気安いんだろうなぁ。こいつならどんな話を聞かせても驚かないし、引かないって分かってるんだろう。それが私にとっていいのか悪いのかは分からないが。
私は昔から何故か(?)、男友達の方が多かった。そして
「それ、女の私じゃなくて男友達か誰かに話せよ!」って内容の話ばかりされるという。私のことを女性だと思ってないのか、逆に女に聞いてもらいたいのかマジで謎。

まぁ、私はスナックのママみたいな感じなんだろな。聞き下手がママってのもあれだけども、そういうママがいてもおかしくないわな。誰か資金を出してくれればスナックとか飲み屋やりたいもんなぁ。ていうか、やるはずだったのよ。ああ、過去を振り返るなとか言われそうだけども母が私名義の借金を遺して死んだりしなければ、ボロ家買うか店をやろうと思ってたんだよなぁ。その名も「福音喫茶 ノエの方舟」、ってのは半分冗談だけども、店をやれば私自身の居場所も出来る。もちろん経営なんて甘いことじゃないのは百も承知。けど独りで家で飲むより、その場に居合わせた誰かと飲みたい、話したい夜(昼でも朝でもいいが)ってあるじゃん?私はまさにそんな理由で旅をしていた節がある。何も酒場やカフェじゃなくてもいい。一期一会の出会い。たまたま同席した何の利害関係もない相手、火を貸してくれる?で始まり終わる出会い。お互い名前なんて知らない、名乗らない、訊きもしない。けど、そういう人って意外と記憶に残ってるんだよ。着てた服、交わした言葉、グラスの冷たさ、流れていた音楽、あの場所の温度や匂い。

私はシャンソンなども聴くのだけど、エディット・ピアフの<ミロール>って曲が好きでね。
「だんな、あの可愛いお嬢さんに振られちまったのかい?あんたはあたしを知らないかも知れないけど、あたしはあんたを知ってるよ。だけどまぁいいじゃないか、ここにいらっしゃい。あんたの愚痴を聞くよ、あたしは歌ってあげる、さぁ踊ろうよ!」と港町のうらぶれたバーの女が陽気に、けれど切なく語り掛けるのですな。

私は小さな波止場。寂しい、孤独な人たちが碇を下ろすところ。そしていずれは出港してゆく。別の港、お嬢さんの元へ。ああ、いいのかなぁ、こんなんで。どいつもこいつも、とまでは言わないものの、落ち込んでる時や病んでる時には私に泣きごと言ってきたり、甘えてきたり「今は落ちぶれてるけどそのうちまた全盛期以上になるから、そしたら君に贅沢をさせるからな!見てろよ!」って言うんだけども、結局少し状態が安定すると去っていくのよねぇ。悲しいね。スナックのママなら、ああ、きっと幸せになってここを卒業していったのね、まぁ売り上げは落ちたけど!くらいで済むのかも知れないが(?)、私はただの人、一人の女だからなぁ。それに相手は客じゃない。やはり割り切れないものがある。年中あちこちの波止場や港に寄港してるような人の方に却って安心感を抱くのは私が病んでるからなのだろう。そうだよなぁ、モテる人やどう見ても自分に釣り合わない人なら、適当にあしらわれても、棄てられても仕方ないって思えるもんなぁ。そんなお嬢さんはやめて私にしなよとはとても思えない、言えない。けどそんな単純なものなのかな、いや、分からんが。私という波止場はいつでも開いている、不凍港だよ、いつでもおいで、って温かく迎え入れたいけど困った人も寄港してしまう。誰か一人のための波止場に私はなれるのだろうか。なる必要があるのかも分からないが。私はすぐに不安になるしものすごく不器用だから、誰かに一途になるのは怖い。けれど適当に遊ぶのも難しい。かといって孤独も嫌だ。難儀な性分だ。

私はカリュプソー。島に漂着したオデュッセウスを愛し、献身的に世話をするけれどもいつか別れの時がやって来ることなど、分かっているのだ......。

あとねぇ。私に相談(?)してきたり弱さを見せてくる人って普段は一人称が「僕」「私」とかなのに本音を言っているときには「俺」って言うんだよなぁ。自分では気づいてなさそうだけれど。私は知っている。