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自画像展に行ってきた。

私の趣味のひとつに、美術館へ行くことがある。
と言っても絵や美術史に全く詳しいわけではなく、ただただ色んな芸術の表現を見る時間と、非日常的で静かな空間に癒されるのが好きだ。特にあまり混んでいない時間や場所に行くのがいい。

もはや絵の価値なんか何も分からず、どんな技法でどんな時代背景でどんなモチーフでなんてことは二の次、この絵がなんか好きだとかこの表現は面白いとか、そんな浅いところでしか見れていないのだが、
地方にふらりと出かける時はほぼ美術館と名産巡りが目的というくらいに、私の中では大事な趣味である。

美術館は美術に詳しい人だけのものではなく、色々な楽しみ方ができる、と何かの本で読んでから、私は知識を深めることなくひたすらに「ただ絵を見るだけ」のために足を運ぶ。

特に静かな人の少ない美術館で、心ゆくまで絵と向き合う時間ってゆうのはものすごく贅沢で、私的には自分の中の色々がリセットされる感覚なのだ。


そんなところで、都心のまだ発掘していない美術館をネットで探していたところ、「自画像展」というものがあるのを知って先日行ってみた。


新宿にあるビルの中にあった中村屋サロン美術館という、中村屋が運営しているらしい小さなギャラリー。都会のど真ん中であるが私が行った時間は人も多くないこじんまりとした雰囲気だった。


それまでの私の自画像のイメージは、画家の個展の中のワンコーナーというか、いろんなモチーフやいろんなメッセージの作品を残している中で「自分のこともちょっと書いてみました(どうすか)」的な位置付けだと思っていた。(書いてて自分でも意味わからん)

なのでもちろん私の鑑賞力の問題もあるが、自画像というものに特に深いメッセージや深い意味などを感じたことはなかった。

しかし、この自画像展ではそんなさまざまな作家の「自画像だけ」を集めた展示会であり、そのずらりと並んださまざまな人の顔、姿はなんとも圧巻であった。


まず、「自分の顔」というある意味毎日のように向き合って見つめているものであっても、その切り取り方はさまざまだ。

表情、色彩、角度、仕草、画法などの他に、ただ座っているだけのものもあれば、絵を描いているときの自分の姿であったり、ペットの猫や誰か他の人と一緒にいる時の自分、またはものを持っていたり、鏡に写されていたり、現実ではあり得ないようなシチュエーションが描かれていたりする。


こんなにたくさんの種類の自画像を見比べたのも初めてであるが、一人の画家の自画像を見ただけでは見逃してしまうような「自画像という表現」にとても奥深さを感じた。

あのパブロ・ピカソの自画像も飾られていたが、あのゲルニカのような独特な描き方をされていた。同じ自画像というものでもここまで人によって違うかというのは面白かった。

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思い返せば、結構多くの人が学生時代に自分の自画像を描く経験をしているのではと思う。私もその一人で、たしか小学校の図工の時間で自分の絵を書く時間があったのだが、思春期というか「あまりよく描きすぎると恥ずかしい」みたいな謎の羞恥心がありつつ、決して美化し過ぎないように気をつけて描いた覚えがある。

と、こんなど素人の幼少期の経験と比べてはいけないのだが、きっと他のモチーフを書くよりも自分というものを書くとなった時、とりわけそれが人に見られるということを考えると、様々な感情や思惑が巡りそうだ。

そういう次元とはまた別のところで、芸術家が書く自画像というのは、またそれを描く本人の時期や心情にも影響するだろうし、暗い色で無表情にリアルに描く人、明るい色で表情も分からない抽象的な作品にしている人、夢の世界にいるような物語性のある世界を描いている人など、本当にさまざまだった。

いうなれば自画像というのはモチーフは「自分」というものであれど、それはどんな風に描いてもいいし、その時の自己を客観的に忠実に捉えようとしたり、自分の醜い部分を表そうとしたり、完全に空想の理想の自分でもよい。ある意味その芸術家の容姿以上に、その時の作家性や個性がとても表れるものだと見ていて感じた。

これから美術館に行ったらまた色々な自画像に出会うだろうが、少しだけ見方が変わっているような気がする。少なくともその作家が何を考えていてどんな人であるか、自画像には多くのヒントが隠されているのではないだろうか。


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