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閲覧、フォロワーを増やすために記事を書く?

月曜の午前11時の奈良は、とてもすがすがしく晴れて、少しひんやりとした乾いた風の吹く良い日です。みなさんいかがお過ごしでしょう?(写真、先日の「小宇宙」の近くで撮ってます。この近所の団地には小宇宙が溢れてます。)

なんだか批判的なタイトルですけど、そんなわけではなくて。そういう考え方もあっていいと思うんですよ。それに閲覧数やフォロワーが増えるのは悪い気分はしない(というか嬉しくないわけがないですよね)。

でも、「こうやったらフォロワーが増えた」「こんな記事を書いたらスキが激増!」とか、記事を読んでると、なんだか本末転倒な気がしてくる。

それを気にし始めると、自分は何者か、より、大多数の人たちは何者なのか、ばかりが気になってくる。
文章でカネをもらって生活したい、と考えているなら別だけど、それでも、ファンを増やすために「大多数の意識」に合わせていきつつ、他の人とは違うことをしないといけないって物凄く難しいよね。かなり割の悪い仕事だと思う。

僕は仕事は仕事、好きなことは好きなことと分けてるので、note や音楽では自分自身を正直に正確に表現して、それでも気に入ってくれる人だけと繋がれればそれでいい。自分を偽ったり繕ったりしても、自分が本当につながりたい人とのリンクが見えにくくなるだけ。

それを明確に意識したのは一昨年の年末。
それまでは曲を書くときでも「いい曲と言われたい」というような変な根性があって、なかなか納得いく曲を書けなかった。
それがある日「あ、そうだ、自分のために曲を書こう。めちゃくちゃ格好悪くていい。まず自分を浄化できる曲を」と思った瞬間から曲がどんどん出てき始めて。でも最初は「こんな歌、オレ以外に好きになってくれる人なんていないだろう」と思っていた。

その年末のライブで、「自転車に乗って君の街に行こう」という歌をやった。明るい曲だけど、一昨年死んだ親友に贈る曲。そんなことはもちろん言わずに演奏したら、最前列の何人かの人が号泣してくれてて。伝わるんだな、と実感した。

やっぱり表現する側が全部さらけ出さないと、表現を受け取ってくれる人の共感なんて得られなんだな、と。


で、「自転車に乗って君の街に行こう」のライブ。これは、一昨年ではなく、去年のライブの映像ですね。(ここでもギターを弾きながら、足でフットパーカッションを踏んでいます。)


(文・写真: セキヒロタカ)


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