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定刻の鐘




定刻を告げるベルが鳴った。リングブーツの網紐を引き結ぶ。20時30分。試合、開始。

あの人との出会いは、もう4年ほど前になる。
東北の片田舎に生まれた俺は、高校を卒業してすぐに少し離れた土地のプロレス団体に入団した。理由はプロレスが好きで、地元が嫌いで、普通に働くのも、進学するのも嫌だったという単純なもの。
勉強は嫌いだった。集団行動はもっと嫌いだった。高校を卒業出来たことも、多くの元同級生達のように犯罪者にならなかったことも、自分のような人間にとっては、半ば奇跡のようなものだった。

プロレスラーという職業に似合わず、読書が趣味だと言っていたあの人は、入団したプロレス団体の大先輩だった。昔は東京の大きな団体で上から四番ぐらいの位置にいたのだと言うのが、酔った時の常套句であるような人だった。

新入りで生意気だった自分は、あの人の事が苦手だった。嫌いだったとさえ言える。
父親のような、教師のような顔をいつもしている、厳しくて鬱陶しい人だった。
いつだったか、道場の後ろでひっそりと煙草を吸っていたのを見た事がある。他の同僚たちには「吸わない」と言い切っていた煙草を、大きな背中をまるくまるく縮こませて、誰の目にもつかないように吸う姿を、なぜか俺はずっとずっと見つめていた。
堅牢な巻貝の中に引きこもったやどかりが、少しだけ顔を出したような、滅多に見られないものを見た嬉しさだったのかもしれない。
ただその時から、あのまるい背中がずっと頭の隅にうつむいている。

団体に入っても集団行動嫌いは治らず、同期たちがどんどんとデビューする中で、愛想のない自分は空気のような存在だった。先もなく目標もなくただ繰り返す生活の中で、それでもデビュー戦が決まった。
デビュー戦の相手は、あの人だった。
2年前から膝を壊したあの人は、どんどんと試合の数を落とし、新入りのデビュー戦相手にまで落ちぶれていたのだった。

当日、汗とカビの臭いで溢れた薄暗い控え室に、あの人は座っていた。
両膝にガッチリとテーピングを巻き、
突き刺さるようなするどい瞳をリングブーツに落として、職人のように丹念に、網紐を結んでいた。こちらを見向きもしないその姿に、心のどこかに溜まっていた何かつよいものが、堰を切ったように溢れ出してきた。

苦々しい、うっとうしい、それでも焦がれる、あなたの気持ちが分かります、分かるんです、かなしいですよね、さびしいですよねと、のどが張り裂けんばかりに叫びたくなる、身を震わせるほどにつよい何か。もしかして、これは恋だったのか?こんなにも汚くて、どうしようもない、憐れみと共感の申し子のようなものが、恋と呼べるのか?

震えたまま動けないでいると、あの人が射殺すような瞳でちらりと、こちらを見やった。
途端に、定刻のベルが鳴る。20時30分。入場のアナウンスが響き、間もなく1試合目、俺のデビュー戦が始まる。
俺はあの人から離れてベンチに座り、リングブーツの網紐を真剣に見つめた。

もうすぐ試合が始まる。何かつよいものは、未だ身体を支配しつづけていた。



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