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明日春が来たら

 明日春が来たら、君に会いに行こう。
 きっぱりとそう決めて、私は先生に会いに行った。毎度ながら急な訪問になってしまうが、先生は在室だった。
「また、行くのですか」
先生は机で物書きをしていた。私が入っていくと眼鏡を取ってすぐにそう言った。こんな立場のこんな若造にも敬語を崩さないところが、先生の敬愛すべき点だ。
「はい。迷ったのですが、やはり、行かないと」
「後悔するかしれないのに、行動する方を選ぶのは若い証拠です。羨ましい限りだ。どうぞ。」
先生は引き出しから鍵を出して、渡してくれた。話が早く、さりげなく私を応援する気遣いが、とても心地よい。用事と言えば乗り物を借りるだけなのに、心まで落ち着けてもらったような気がする。
 鍵を受け取って、先生と外に出た。
「先生のおかげで、毎回心置きなく出発できます。本当に、ありがとうございます。」
素直にそう口にすると、先生の眉毛が少しあがり、そして目じりに皺が寄った。この人は寡黙なほうだが、その代わりに細かい表情で気持ちを表現する。長いことお世話になっていると、それが暗号を解読するようにわかる。

 コートのボタンを上まで閉めた。頬に触れる風はまだ少し冷たい。先生に会釈をして、乗り物に鍵を差し込んで回した。
乗り込むと内部は少し埃っぽい匂いがした。前回私が乗ってから誰も乗っていないに違いない。昔は大勢借りに来る人がいたが最近はあまり流行らなくなったらしい。こんなことを続けているのは私だけかもしれないという寂しさと、一種矜持のようなものが自分の中で膨らむのを感じた。
エンジンをかけ、窓から顔を出すと、先生は勇気づけるように頷いた。
「気をつけて」
「ありがとうございます、行ってきます」
エンジンをかけ、アクセルを踏むと、たちまち先生の姿は見えなくなった。内部の手入れはされていなかったが、それ以外の部分には定期的に油がさされていたのだろう、動きに問題はなかった。

 乗り物は暗いところを滑るように走っていく。いつもここで横や後ろを見たいと思うが、何となくまっすぐ前を見ていないとうまくたどり着けないのではないかという不安があり、ただ顔を前に向けてもぐらのように進んでいくほかはない。次第に視界が開け、前回と同じ道路に到着した。

 乗り物から降りて、一瞬だけ空気の匂いを確かめた。すっかり春になっている。あたたかさにほっとすると同時に、突き上げるように焦りが腹の底から登ってきた。先生に時刻を合わせてもらった時計をはっとして見る。急がなければ。走らなければ。

 急に走り出したので足が悲鳴を上げているし、汗をかいてきた。コートを脱いでおくべきだったと後悔しても、そんなことにいちいち構っていられない。アスファルトに響く自分の足音が痛みのようにじわじわと聞こえる。
 脇腹が痛くなるくらい走ったら、ようやく何度も何度も見た背中が見えてきた。どうせ声は届かないのだから、叫んでも呼んでも意味がないのに、腹の奥から絞り出すようにして背中に向かってオーイオーイと叫んでしまう。
 自分のと同じ大きさの背中は何も気に留めず、後ろには何も残さないというような感じで、ふらふらと進んでいってしまう。
 だめだ、どうにかあの背中でも、腕でも、掴まないと。
 
 ようやく腕を伸ばして、急速に傾いていく服の裾の端をつかんだと思ったら、無慈悲にもその裾は手からするりと抜けてしまった。掴み損ねた体が重力に従っていくのを見たくも聴きたくもなくて、耳をふさいでしゃがみこむ。
 体は後悔でびりびり痛む。
 涙なのか汗なのかわからない液体が顔を伝っていく。
 悲鳴ともため息ともつかない声が出ているのがわかる。
 また、またしても、会えなかった。話すことはおろか、裾すら掴むことができなかった。
 これでまたひとつ、私は転機を逃したのだ。

 へたりこんで、気がつくと乗り物の傍らに立っていた。
 もうこれに乗って帰る気がしない。かといってそこにとどまる気もしない。せめて乗り物の速度と正確さについて先生に報告しよう。そういえば時間と場所が指定できるのだからもっと前に移動しておけばこんなことにはならないはずだろう。そうだ先生に言ってみよう。
 乗り物に飛び乗って脱兎のごとく帰ってきた私を、先生は変わらぬ笑顔で出迎えた。きっと憔悴しきっているにちがいない私の顔を見ても、笑顔は崩れなかった。
「お疲れ様でした。やはり少しずれがあってたどり着けませんでしたか。申し訳ないことです。本当にお疲れでしょう、もう今日ははやく帰って眠ったらどうですか。眠りに効くハーブを用意してあるからよかったらどうぞ。」
 なぜか先生にそう言われると何も言えなくなってしまい、私はハーブの小袋を受け取るとまっすぐ帰宅してしまった。

 まだ体は火照っていたが、家路についた私の頬を撫でる風はただひたすらに冷たかった。


 「もしもし、お世話になります。春の彼岸のぶん、終わりました。それにしてもこの青年は長く続きますね。恋人か結婚相手でも遺してきたのでしょうか。」
『そんなことを気にするなんて、お人よしだね。それにしても画期的だとは思わないか、この刑罰システムは。執行する側は最小限の罪悪感で済むし、なにより若者の野望を助けてやっているという気持ちすら湧いてくるだろう』
「確かにそうかもしれませんね。しかしそのために彼岸と盆に予定を開けて待っている私の身にもなってくださいよ」
『まあまあ、彼は先生以外信用していないようだから仕方ないじゃないか。報酬は弾むよ。君の開発した乗り物のおかげで、ずいぶんと速くあちら側に移動できるようになった。そうしたところで背中も腕もつかめやせんのだがな。ははは。』
「ありがとうございます。おかげさまで研究費には困らなくなりました。」
『そうかそうか。しかし君も人が悪い。わざとプライドを刺激しているそうじゃないか。乗り物の中をわざと掃除しなかったり、丁寧に接したり』
「まあまあ。あとどれくらいでこの青年は救われますか」

「そんなこと、わからんよ」

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