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お母さんと仕事

お母さんは兼業主婦だ。
それが嫌だった。

というのも、私が通っていたのは幼稚園で
共働きの家庭というのがほとんどなかったからだ。

数字でいうと、
30人ほどいる組の中で、たった2人。

「2004年」「幼稚園」という環境、
「30人」というクラスの規模を思うと
まあ普通かなという感じ。23歳なので。

でも私は当時4歳。
保育園と幼稚園の違いもわからなければ
30という数字は指を折っても足らないし
そんな大人数のなかで「2人」というのは
何ともまあ、寂しかった。

平日は毎朝大号泣。
「仕事行かんとって」だの
「幼稚園休みたい」だの
「お母さんのバカ」だの
えらいこっちゃだった。

それでも祖父母は迎えに来るし、
祖父母の家には幼稚園バスが来るのだ。
だいたい、がんこちゃんの時間帯に。

気に食わなかった。
みんな登園はお母さん(お父さん)としていたし
2時のお迎えはお母さんがしていた。

幼稚園バスだって、
乗るところまではお母さんが手を振る。

居残り保育は年少〜年長含めて10人足らず。

自営業の家の子は会社でバスを降りたりして。
(これも結局3時頃には親に会えててずるいなあ)

お父さんが仕事をして、
お母さんは家で待ってくれる。

そういう家庭に憧れた。
別に他の家の子になりたかったわけじゃなく
私の両親は生涯この人たちしかありえないけど
とにかくお母さんともっと一緒にいたかった。

そして23歳の今、
自分の幼少期にかなり満足できている。
母が私に付きっきりでなくてよかったと思う。
以下に理由を述べる。

ーーー

例えば30歳で出産・退職して、
そこから専業主婦になって、
お給料がなくなって、
いざ働こうとしても元のポストにはつけなくて、
パートで、夫の扶養内で働いて、
その上何かしらのトラブルで
離婚でもしたらどうなる?

母はこれをきちんと考えていた。

決して父と離婚したかったわけではないと思うが
母の父、つまり私の祖父から
「女の子がね、1人で食うていけるような
そんな仕事に就きなさい。」
と中学生の時から散々言われていたらしい。
そしてそれは母の信念として、
私に受け継がれている……!

ナイスおじいちゃん。
あといつも空から見守ってくれてありがとね。

そして、母には
育児の助っ人がとにかく多い。

祖父母、叔母、大叔母、
近所の喫茶店に来るおじちゃんおばちゃん、
成人済みのいとこ。

母がフルタイムで働いている間も
私の周りは、私を助け、
育ててくれる大人に溢れていた。


幼稚園でしこたまアホな同級生を見た後で、
自分と年齢も価値観も違う世代の人と
多くの時間を過ごす。

時代劇、高校野球、大相撲、アンパンマン、
トランプ、新聞をめくる音、かけ算、
わくわくさん、玉子焼き、鶴の折り方……

異文化交流の毎日が超!楽しかった。

「0」の書き方を教えてくれたのは従兄弟、
かけ算を教えてくれたのは祖母、
泣いたら舐められると教えてくれたのは祖父。

春と夏のあいだだけは自転車で迎えに来て
堤防に咲く花や、駅から離れていく
アンパンマン列車を見せてくれた父。

美味しいお弁当を作ってくれて、
いつも笑顔で送り出し、迎えてくれた母。

(これは、働きながらのワンオペが
いかに厳しいかという話にもなってしまうね。)

当時はとにかく寂しすぎて泣き続けていたけど、
どう考えても恵まれている。
この環境で「あたし働かないわよ」という母は
少なくとも私の母ではない。

そして「女は家に入れ」というような家は
父方だろうが母方だろうが
私の帰る場所ではないのだ。

母は信念を貫いて
「独り立ち」できる仕事をしながら
私を娘として受け入れてくれたし、

私はたくさんの人たちに可愛がられて
学びの多い幼少期を過ごせた。

これで、よかったな。
振り返って見るとかなりよかったな。
素敵な感じだな。

……と思うまでに時間がかかりすぎている
気がする……が!よかったならよかったよね。

私も1人で生きていけるように
なるべく働いていたいと思うようになった。
似てるんだよね、私たち。


最近、この話を両親にしたのだけど
文字で残しておいた方がいい気がするので
記してみた。

長文乱文も大概にしてほしい。
ここまで読んでくださったみなさん、
ありがとうございました。

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