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リアルで人と会う価値について考える 「師匠」と対峙して得られる学びとは

コロナ禍により、とにかくリアルな人間同士の接触は避けるべき…といった風潮になって久しい。

「リモートで何でもできるじゃん」
「わずらわしい人付き合いから解放されてサイコー」

と声高にいう人も増え、コロナが収束した後もこのままリモートワークが定着して、働き方・生き方、そして人との会い方そのものが変わっていきそうな気配もある。

一方自分は、リモートのメリットはメリットとして享受しつつも、「人と人とが実際に会って交わること」にも確かな価値があると思っていて、その“何か”をどうやったら説明できるだろうかと、ずっと考えてきた。

中でも「リアルで人と会うことから得られる学び」を言語化してみようと思った時、ひとつの例として思い浮かんだのが、同じ空間に居て芸事を教わる「師匠」とのコミュニケーションだった。


師匠から得られる学びの要素を分解してみる

自分はいままでいろんな師匠のもとでさまざまな手習いをしてきた。
「芸は身を助ける」とばかりに、音楽、お茶、スポーツなど…それはもう節操なく。
趣味ではあるが、いずれもその道のプロに弟子入りして、稽古場で先輩・後輩に挟まれながら学ぶ、古風なスタイルを好んできた。
いうなれば、「弟子入り経験だけはプロ級」だ。

技術のみを効率的に習得しようとするならば、昨今はカルチャースクールやオンラインお稽古の他、Youtubeやハウツー本をもとに独学でマスターする、という方法だってある。
師匠への弟子入りはそれらと何が違うのか?について、「弟子入りのプロ」たる自分の経験からUX視点で気づいた点を4つ、挙げてみる。


気づき① 弟子入り初期の下積み期間は重要である

だいたいの弟子入りにおいて、はじまりは弟子から師匠に「教えてください」と頼み込む形になる。
師匠からすれば、自分から手取り足取り指南してやる筋合いはないので、弟子は最初見学したり基礎練を反復するだけで、放置されがちになる。

「忙しい中時間をつくって教室に足を運んでいるのに…」と、はやる気持ちを抑えて師匠のふるまいをみていると、目に入るもの耳に入るものすべてを、とてもよく吸収できる。

師匠の謎の仕草。慌てて謝る先輩。どうやらこれはマナー違反のようだ…。
場や間(現場の空気や進行のスピード感)を読む経験を積むことで、自分の中にしかるべき量の暗黙知が蓄積される。

イマドキの言葉で表すなら、「ネガティブ・ケイパビリティ=事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」といった感覚にも近いかも。
自分で手を動かして視野狭窄におちいる前に、ここでなんとなくのノリを掴み、自分なりの問いを持つことは、その後のインプットの質を高めることにつながる。


気づき② 師匠は究極のアナログデータである

教本に書いてあるのは「この鍵盤を押しなさい」という動作であり、押すか押さないかというスイッチをオン/オフするための指示であり、つまりある意味、デジタルな情報だけだ。

対して師匠は、生きた旋律をリアルタイムで生成するアナログな存在。
なめらかな連続性の中には、五線譜では表しきれないピッチの微妙な高低であったり、押し加減の強弱であったり、16分音符でも間に合わない、細かい譜割りのリズムが存在する。

弟子は目に見えるもの、言葉で説明しきれるもの以上に細かい情報が行間にあることを体感し、解像度を上げてブレを修正すればするほど、技が磨かれていくことを体得していく。

さらに動作から動作へと移る呼吸、思うように操作するための筋肉など、ゆらぎのある肉体の反応にリアルタイムでフィードバックをもらうことで、深い身体知が得られる。


気づき③ 師匠とその一門には複層的/体系的な学びがある

師匠の教育はテクニックを教えるお稽古の時間だけではない。
稽古やイベントの事前準備にまつわる負担感、スケジュール感、経験に応じた役回りなども学びであるし、コミュニティ内での礼儀や文化、金銭事情、ひそひそ話、外部からの評判など、周囲からの刺激もヒントになる。

さらにいうと、師匠自身の生き様もインプットの一部だ。
表情、気配、佇まい。来歴やその道に入った動機、師匠にとっての師匠。費やしてきた時間や情熱の多さ熱さまで。
それらは小説の伏線を回収するがごとく、折りに触れ一枚ずつ明かされる。

利害関係のある人/ない人、さまざまな立場の先輩と接し、五感を駆使してヒントを拾い集めていくと、すべての知識が少しずつ、自分の中で体系化されていく。
帰属感が増すと、師匠や一門の名を汚してはいけないという恥の概念が、芸のクオリティを最低限維持する安全弁として機能する。


気づき④ 師匠の怒りは自分の芸のバロメータである

教本は間違えたからといって自分を叱ってくることはないが、師匠は弟子に対して本気で怒る(怒りではなく嫌味をいう系の師匠もいます)。

あくまで趣味として習いに来た人間に対しても、容赦なくプロの目線で評価し、仕事が忙しく練習できなくて…などと言い訳しようものなら、「もう帰れ」と言われかねない。

なぜそこまで怒られるのかというと、ヘタクソでやる気のないやつの音楽を聞かされる(芸を見せられる)のはとても苦痛だからだ。
そしてそれは師匠だけでなく、お客さんにも与えることになる苦痛だ。

ただひたすらに師匠を怒らせないように、
それを目的として緊張感を持って取り組めば、とりもなおさずお客さんから見たときの自分の実力を、客観視することにもつながる。

また、怒られたくない一心から上手に見えるよう取り繕ったところで、師匠には手に取るようにバレている。
叱咤を受けると落ち込みもするが、ひとりで抱えこんでいた不全感とつまらないプライドからは解放される。


人間くさい情動の中で「行ったり来たり」しながら学ぶ

師匠から得られる学びの要素をこうして並べてみると、
下積み修業、上下関係、感情的な叱咤など、一見、わずらわしいと忌避されがちな要素のオンパレードだが、人間同士が対峙するからこそ生じる豊かな刺激ともいえる。

はじめは自分から弟子入りしているのだから、師匠に食らいつき技を盗んでやるぞという主体性が必要だが、怒られるターンでは一言も反論することなく批判を受け止める従順さ・謙虚さが求められるなど、「能動的←→受動的」というふたつのモードを「行ったり来たり」するプロセスも興味深い。
自分からやりたくて習いに来たはずなのに、師匠にやれと言われるとプレッシャーで逃げ出したくなる。そんな矛盾した状況が、理屈を超えてたびたび生じるのだ。

デジタルな教則をアナログで再現し、アナログのゆらぎをデジタルで補正する。
意見の食い違う先輩方のあいだで右往左往する。
主観的な自分の世界に没入し、師匠からの客観的な批判で引き戻される…。

「人から学ぶ」というスタイルは、明確な正解がないゆえに、
相反するものの間を「行ったり来たり」しながら学び取っていくのが、その本質なのかもしれない。


「いまを生きる大人にとって必要な学び」とは何か

近代以降の学校教育は、学ぶ気がある人もない人も、すべての人が最低限度の生活を営むに足る知識を得られるようデザインされており、おかげで今日の私達は一定水準の教育を受けてこられた。
加えて情報化によって、不明な事柄は検索すれば誰でもスグに答えが得られる便利な世の中になったわけだけど、はたして均一的な知識・体験から、イノベーティブなアイデアが生まれるものだろうか?

かたや、今回考察した師匠からの学び(いわゆる徒弟制度のようなもの)は大いに属人的で偏りがあり、学校や会社の教育システムにするとパワハラになってしまうが、ノンバーバルかつマルチチャネルで、教科書やインターネットにはないユニークな価値がある。

その中から自分が懊悩しながらじっくりと獲得してきた技術やセンスは、座学よりもっとリアルな手触りをともない即戦力となるもので、他人には容易に真似できないものになるだろう。趣味の稽古で得たスキルが仕事などで活きてくることも度々あるし、芸事に限らず学校の教授と生徒、会社の先輩後輩など、どのような場面でも自分なりの師匠を見いだし、深い学びを得ることはできる。

ようやく宣言が明けて、人と会えるようになったわずかな(かもしれない)期間。ユニークな学びを求めて「行ったり来たり」しに行こう。


[ ※ 参考文献]
承認欲求は『師匠』で満たせ!元エリートサラリーマンの落語家に教わる『自分を壊す勇気』
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/yowami01
AI、VR … 先端テクノロジ全盛時代だからこそ人を伸ばす丁稚奉公・徒弟制度が活きる!
https://www.elle-rose.co.jp/column/article.php?column=16&page=5


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