私だって、誰かの「すきとおったほんとうのたべもの」になることを願って書きたいんだ
なぜ書くのか。好きだから書く。
でも「好きだから」という理由だけで書いているなら、それは趣味です。
書いたものが誰かの心に届いて、その誰かに何かしらを与えられるものでなければ。
ときどき、「好き」だけを追求して創作したものが、結果としてみんなのためになってしまような、”天才”と呼ばれる方たちもいますけれど、まずもって、私はそれに当てはまらない。
だから、いつも読んでくださる人のことを頭に置いて、書いています。
今日は、歯みがき中に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んでいました。
『銀河鉄道の夜』を読んでいると、せつなくてせつなくて、胸がぎゅーっと苦しくなってしまいます。
賢治は、自分のことなんかあまり考えていませんでした。いつも他の人のことばかり想っていました。
彼の書いたものの中で、私が一番好きなのは、『注文の多い料理店』の序文にあるあの有名な文章です。
「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風を食べ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。(中略)
わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」
山で農業をしている私は、畑やしいたけの林にひとりでいるとき、よく賢治のこの文章を思い出します。
そして、もしかしたらそういう「おはなし」が私にも書けるかもしれない、と目を閉じ、耳を澄まします。
いまだ、それは叶わないけれど、いつか私の心にも誰かの「すきとおったほんとうのたべもの」になるような「おはなし」が浮かんでくるかもしれません。
だから、死ぬまであきらめずに、耳を澄まし続けるつもりです。
そして、私の日々の文章も、「すきとおったほんとうのたべもの」とは言えなくても、誰かにとって「ちょっとしたビタミン」くらいにはなれるように、と願って書いていきます。
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