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語学研修で感じた『みんな同じ人間だ』ということ 〜言葉の扱い方〜
高校生の時、私はオーストラリアのシドニーに2週間の語学研修に行く機会を得た。
それまでに私は海外旅行にも行ったことがあったし、大丈夫だろうとどこかで考えていた。
だが、現実は甘くはない。
今回は私の語学研修での経験を失敗を含め、学びになったと感じたことについて話そう思う。
そして、当時まだ純粋な(?)高校生の私が感じたことを思い出した時、SNSに関する問題に繋がると感じたことについても話してみる。
私の語学研修
私を含め20人弱のメンバーが参加していた。
いくら同い年の子たちが一緒に行くとは言っても、親元を離れることに加えて、現地でのホームステイ、英語力、コミュニケーション力…挙げればキリのないほどに不安の要因はあった。
ただ私はわかっていなかった。
本当の意味で英語漬けになり、生活をするということ、他人の家で暮らすということの大変さを実感したのは、現地でホームステイが始まってからだった。
英会話は小さい頃から通わせてもらっていたから、少しは心強い。
………そんな思いでいたのも束の間。
いざ、話そうとすると、考えていることが言葉として出てこないのだ。
最終的には電子辞書を片手に過ごす日々。
単語でなんとか伝えるも意図した内容が伝わらず…
ホストシスターとのコミュニケーションもままならず、帰国後も英語力にすっかり自信を無くした私はうまくコミュニケーションを続けることができないまま、結局疎遠になってしまった。
今でも当時のことを後悔している。
せっかくの機会を無駄にしてしまった。
ホストファミリーやホストシスターには良くしてもらったからこそ、今からでもお礼を伝えたいと思いながら、その悔しさと後悔を今でも英語の勉強をしながら、思い出している。
そこで生活していたのは同じ人間だった
ホームステイ期間、ホストシスターと行動を共にする事が多かった。
英語は話せなくても、耳が慣れてリスニング力は日に日に上がっていく感覚があった。
だから、最初は早くて聞き取れなかったような友人同士で話してる内容も後半にはわかるようにはなっていた。
何より、目で見て吸収することもあるので、一緒に行動をするときは一瞬一瞬を大切にしていた。
その中で見えてきたのはみんな同じ人間だということ。
そんなことかと思うかもしれないが、私にとってはその体験が重要で、今の私を作っていると言っても過言ではない。
学校に通い、授業を受け、帰りにカフェに寄ってタピオカを飲んで帰る。
友達と学校で、「親が早く起きろって言ってくるの、こっちは宿題もあるのにさ」と文句を言ったり、ランチタイムには、仲良しメンバーで円になって話しながら過ごしたり、休日にはお出かけしてアイスを食べながら、街中をお散歩したり。
そこには、日本の女子高生と変わらない”日常”があったのだ。
当たり前だと思う人もいるだろうが、そんな当たり前のことが私にとっては衝撃的だった。
今はネットでなんでも情報が入ってくる。
海外の映画やリアリティショーを見れば彼らがひとりの人として存在していることはもちろん認識していた。
それでも、その光景は私にとっては媒体を介したコンテンツでしかなく、たとえそれがニュースなど現実味のあるものであっても、その光景を現実的に考えることが難しかった。
彼らにも家族がいて、友人がいて、私たちと同じように生活をしている。と考えることはできても、
恋バナをして、宿題の大変さについて話し、親の口うるささを文句言いつつ、一緒にお出かけをして、夜には友達と悩み相談の長電話をする…。なんて姿までは当時の私はリアルに想像できていなかった。
だから私は衝撃を受けたし、感動さえした。
私たちの日常は、誰かにとっても日常であること。
そして、それはこの地球上のあちこちにあること。
国や人種に関わらず、それらの日常が存在している。
もちろん、その当たり前が当たり前に存在していない場所もある。
突き詰めるとたくさんの問題が出てくるため、これ以上の言及は控える。
が、私にとって画面の中のどこか別世界と感じていたものが、実は身近にあったものと同じだったことにとてつもない衝撃を覚えた。
言葉との付き合い方
今、SNSの付き合い方について問題提起がされている。
私が当時、語学研修前に感じていた、”画面の中の出来事はどこか別世界での出来事であるかのような”、そんな感覚を持っている人が多いのではないかと思う。
SNSが普及し、当時以上に色々な人の存在が近くなったような感覚がある。
だが、現実はその反対に本当に身近な存在として想像することができていない。
その矛盾が問題のような気がしている。
近い存在なのに身近に想像できていない現象
そんな錯覚に混乱しているように思う。
想像力の欠如と言ってしまえばそれまでだが、実際に有名人に会う機会がない人にとってはその人の生活を現実的に、本当の意味で身近に感じること、想像することは難しいのかもしれない。
本当は自分の目で実際に見て感じないと、現実的に、身近に感じることなんてできない。
当時の衝撃を思い出すとそうも感じる。
だが、それでも、だからこそ、想像力を鍛えること、発言の垂れ流しをするのではなく、考えて発信することなど”人間力”を鍛えていくことをしていく必要があるなあとも思う。
実際に見えていない先に自分と同じような”日常”があることに気付けるかどうかで人間の感じ方は変わると思う。
いや、実際に私は変わった。
あの後、私はもっと世界を知りたいと思った。
外国と関われるような仕事につけたらなあなんて考えたりもした。
そんな風に考えるようになったのもあの時の衝撃がきっかけだ。
もっと色々な形の日常が見たいから、私は色々な国に行っている。
実際に見ることはとても大切だ。
だけど、見る事が出来ないのなら、想像力をつけるしかない。
刃物を振り回すのではなく、正しく扱える人になりたい。
炎を投げつけるのではなく、人を温められる人になりたい。
しっかりとその先に広がる現実があることを認識できることは大切だとこの語学研修を通じて学んだ。
そのために私は今日も勉強をし、自分の成長のため、人間力の強化のために努力をしていきたい。
もちろん、英語も…
あの時の後悔と反省と感謝の思いを忘れず、勉強し続けていきたい
と改めて思った。
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