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毎日書くことで失われていたもの。1000日チャレンジをやめます。

前回に引き続き、身体性と文章の話。

先日、100マイルを走る友人のブログを一気に読んで焦がれた話を書いた。

友人のブログはこちら。

共通の友人の間では、最近この文章の話で持ちきりで、「明けましておめでとう」の次は、合言葉のように「読んだ?」「読んだ読んだ、すごかったよね」って言い合っている感じです。


長老も感銘を受けてらっしゃる。

巻を措く能わず。まさに。


私もトルデジアンのエントリーを一気読み×2回。そのあと、それ以外の100マイルのエントリーを全部読んだ。ちょっとしばらく、地上に戻ってくるのに時間がかかったよね。それくらい没入した。

この文章を読んで打たれた理由を、一度言葉にしたら昇華できるかなと思って、書いたのだけれど、胸のあたりにひっかかっているつかえみたいなものがずっととれなくて、ずっともやもやもやもやしていた。

なんだろ、このもやもや。

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話は変わるようで続いているのだけれど、この文章を読んでいるときにずっと思っていたのは、あーーー、髪切りたい、坊主にしたい。ってこと。とにかく削ぎおとしたい気持ちでいっぱいになった。

で、1月1日、美容院に3日後のネット予約を入れた。開店同時の予約枠。なんかこういうときは、うっちーな気がして、半年ぶりにLECOのうっちーに。

表参道までの道のりの半分は歩いて行った。歩きながら、もやもやの正体を考える。

いい文章にたいする嫉妬かな。うーん、なんかちょっと違う気がする。だいたい人の文章に嫉妬しても意味ない(と私は思う)。文章って生きざまだから、人と比べることがもっとも意味のない分野だ(と私は思う)。

嫉妬じゃなくて、なんかもっと、焦り、みたいなもの。
わたしが、ここに、いちゃいけない感じ。
今、気づいたけど「焦る」と「焦がれる」は同じ字をあてるのだね。

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新年の挨拶もそこそこに、「うっちー、坊主にしたい」と話した。

「は? 何、言っちゃってんですか?」とうっちー。
なんというか、いまの自分の気持ちといまの髪型がフィットしていなくて(というか突然フィットしなくなって)、それは結構私にとってフラストレーションなんだ、すごくもどかしい。吐きそう、ということを必死で伝える。


ところで、『女は、髪と、生きていく』のトークイベントでよく聞かれる質問のひとつが「やりたい髪型(長さ)が、仕事的に(髪質的に)無理な場合、どうすればいいですか?」という質問なのだけれど、そのとき私は、「その髪型にすることで、手に入れたかった自分像はどんな自分ですか?」と質問返しする。その自分像さえわかれば、必ずしも、その髪型(長さ)である必要はない。

で、ここで盛大なブーメランなのだけれど、うっちーと話しながら、私の場合、坊主にして何を得たかったんだ? わたしはどこへ行きたいんだ? と自問自答する。

……

あーーー

あれだ……

たぶん

それは言葉にするなら、自由だ。

この支配からの卒業だ。

つまり、身軽さ、だ。

身体の身軽さ、心の身軽さ。何かに縛られたくない感じ。

でも何かってなんだ? 

・・・・・・・・・・・

で、とつぜんぱーんと、弾けた感じで、気づく。

・・・・・・・・・・

私が友人の文章の何に焦がれてどうして焦ったのか。実は前に考えたときに、そのはしっこに私は手を触れていた。

言葉って不思議で、思ってもいないこととか適当に書くとすぐにそっぽを向く。
でも彼が書く言葉は、嬉しそうに整列している。

そうだ私、最近、書かなくてもいい文章を毎日書いていた。
それでちょっと言葉に嫌われていた。
大事なときに、言葉が私の味方をしてくれない。

その自覚があって焦ってた。

それは、何かを1000日続けてみようというチャレンジで、友人たちと一緒に、ひとつの分野でなにかひとつのことを1000日間継続するという試みだったのだけれど、それで私は、毎日書籍の「はじめに」を読んで感想をメモするという試みを選んで、このnoteで続けていた。

本は毎日読んでいる。だから、その感想をメモすることはそれほど苦じゃないと思った。どうせ仕事の資料として大量に読むわけだし、書評コラムのネタ探しにもなるし、進捗報告にもなるし、友人の著者さんや編集さんたちへの「読みましたよ」報告にもなるし、一石四鳥くらいに思ってた。

だけど、それが自分をざらつかせているな、と思ったのが秋口。
しばらくお休みしていたんだけど、昨日、101冊目の本について書いているとき、違和感が爆発した。

書きたいことがないのに私なんで書いてるんだ?

もちろん、1000日チャレンジ自体を否定しているのでは全然ないです。
1000日続けることで、ある分野における指針を持てるであろうことは想像できる。1万人に1人の逸材を目指すのではなく、1/100をいくつか掛け合わせて勝負をしていこうという考えには、いまでも強く共感しているし、そのとおりだと思って生きている。
毎日書くことを否定しているのでもない。毎日書くことで鍛えられる筋肉もある。ひねり出される言葉もある。セレンディピティも。それにみんなで走るのは楽しい。多くの友人たちは楽しそうに発信しているし、私自身も毎日その発信を読むのも楽しい。

だけど、私の場合は
この1000日チャレンジにおいて、
「読むこと」や「書くこと」を選んじゃないけなかった。

本を読んで、その感想を書くということは、私にとっては、ちょっとした旅だったはずなのだ。
100マイルとは言わないけれど、ここではないどこか違う場所にいって、で、そこで何かを感じ、ちゃんともう一度戻ってこないと書けないはずのものだった。
その冒険の記を、いっちょかみして、ちゃんと身体をとおさずに出すことは、私の場合、身体性とあっていなかったんだな。

ルーティンとして読み、書くことが、
そして指先が勝手に嘘をつくことが、自分を激しく毀損していることに気づくまで、101冊もかかった。

筋肉も骨も内臓も通過した、研ぎ澄まされた友人の文章を読まなければ、もっと時間がかかったかもしれない。
彼が書いたこれらの文章が、1年以上も前から「そこにあった」ことにも静かに感動する。不特定多数に読ませるために書かれた文章では多分、なかったのだと思う。書かなきゃいけない文章だから(誰かのために?)、書かずにいられない文章だから(自分のために?)、書かれたんだろう。

その純度。

というわけで、「毎日はじめに」は閉店がらがら。そのうちエントリーごと消そうと思います。
いつもそうなのだけれど、自分の身体を使って一式試さないと気づかない感じ、人生が足りなさすぎて出戻りが多すぎてそろそろなんとかしたい。

書かなくてよい文章は書かない。

と決めて、2020年、最初の断捨離。

素晴らしい文章に導かれ、旅をして戻ってきたら少し痩せた感じ。

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うっちーは、これから入る仕事(ヘアアイロンとシャンプーの仕事)と維持のしやすさ、いざとなったとき(例・NHKが決まったとき)の戻しやすさを考えて、ハイライトを40枚くらいとってくれました。

わたしは、うっちーの「ゆみさん、大丈夫です、俺に任せてください」が好き。

久しぶりのブリーチ。髪がきしむ感覚、S-S結合容赦なくぶち切ってる感じ、たまらなく気持ちがいい。

思い出す、この感じ。長い夢から覚めた気持ちだ。

私、ツヤ髪とか上品なグラボブとか、好きじゃないんだった。

傷めたキューティクルの分、やんちゃになれるこの感じが好きなんだった。

髪も文章もやっぱり身体そのものだし人生そのものだな。
身体に刻まなきゃわからないこともやっぱりある。
そればかり繰り返していると人生足りないのだけれど、膨満としたそれよりも私にはあってる。

サロンに『女は、髪と、生きていく』、置いてくれていた。

塚ちゃんとうっちー、ありがとう。

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このとき一回気づいていたはずなんだけどな……。

今年はこっちで頑張ろう

【自著が出ました】
これは、3年半の旅をしながら書いた本。


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