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三重県いなべ市に伝わるヤマトタケル伝承の池

ヤマトタケルは記紀神話のヒーローだ。

父の景行天皇に命じられ、日本中の大和朝廷にまつろわぬ民たちを成敗して歩き、最期は伊吹山の神を退治しようとして反対に返り討ちにあい、瀕死の状態で麓まで降りて来たものの大和に帰る途中で力尽き、亡くなってしまう。魂は白い鳥になって飛び去ったという。

伝説上の人物で実在したかどうかもよくわからないのだが、悲劇の王子のドラマチックな生涯は多くの小説や舞台、漫画などにおいて作品化されてきた。女装して敵を討ち果たしたり、嵐を鎮めるために妻が犠牲になって入水したり、賊に襲われて火攻めに遭い、草薙剣で草を薙ぎ払って難を逃れるなど、創作意欲をかき立てるエピソードが満載なのだ。

私にはかねて疑問に思っていることがあった。それは伊吹山を下りて大和に帰るヤマトタケルの足取りである。はっきりとは書かれていないのだが、水を飲んで蘇生した後、どうも、養老山の東側を通って伊勢に出たようなのだ。

養老山の東側は現在の養老町、海津市南濃町など、養老の滝のある辺りを通って三重に行ったらしい。三重という県名もそもそもは旅に病んだヤマトタケルが「私の足は三重に折れ曲がりたいそう疲れてしまった」といったことに由来しているのだ。

そのせいか、伊吹山山麓、現在の関ケ原町や米原市周辺、梅花藻で知られる醒井から養老山地の東麓にはヤマトタケルゆかりの伝承が点在している。

養老町の桜井と上方にある白鳥神社、さらには南濃町にはヤマトタケルが杖をついて登ったという杖突坂まである。(杖突坂についてはほかにもあり。)

ところがだ。
養老山麓を通って伊勢に抜ける道はもう一つある。それが養老山麓の西側-上石津の多良・時を通って現在のいなべ市‐を通り、桑名、四日市に抜ける道である。昔はこの両者を結ぶ山越えの道もあった。

時地区には、壬申の乱の際、のちの持統天皇が輿に乗って通ったという輿越え峠もあり、昔から伊勢、近江と関係の深い場所だった。

養老山麓の東側を通る道は伊勢街道、西側を通る道は伊勢西街道と呼ばれている。以前からなぜ、伊勢街道にはヤマトタケル伝説が点在しているのに、なぜ、伊勢西街道にはひとつもないのかということがとても不思議だった。特にヤマトタケルびいきというわけではない。伊勢や近江とのかかわりからいえば、伊勢西街道のほうがずっと濃密な関係があったからだ。現に私の母は三重県いなべ市の出身で、母の実家のルーツは滋賀県の彦根市で、どこか特定されている。また実家の近くのお寺には美濃の守護であった土岐頼貞の妻の墓もある。

伊勢西街道のどこかにヤマトタケル伝説が眠っているのではないか。そう思って調べたところ、なんと隣りのいなべ市藤原町にそれらしい場所があったのである。

それは同市藤原町古田の神社の境内の泉らしかった。なんでもヤマトタケルが手を洗ったとかいう。詳しい話はそれ以上は書いてなかった。場所は上石津・時地区の隣である。その神社らしい所に行ってはみたものの、すでに神社は合祀され、それらしい泉も見当たらなかった。

諦めきれない私はこのゴールデンウィークに同地区を車で一回りしてみた。しかし、なんちゃって調査で見つかるはずもなく、がっくり来ていた。

ところが先日用事があって、藤原町にある親戚の寺にいったところ、おどろくべきことが判明したのである。古田地区のある方の竹藪の中にそれらしき泉があると。

教えてもらった電話番号を頼りに電話をかけてみた。3つの電話番号のうち二つは「現在つかわれておりません」というアナウンス。最後にかけた携帯は生きていた!

7月16日、以前から知っていたカフェのママさんと二人で私はその家を訪れた。96才?というおじいちゃんにはお会いできなかったが、息子さんが親切に迎えてくださり、家の近くにある竹藪に案内してくださった。

ところがこの竹藪がなかなかのくせ者である。田んぼの中にはマムシも巣食っているらしい💦竹はところどころ伐ってあるが、伐られた竹が倒れていたり、なにより雨降り後なので、とても、やにこい(濡れていて気持ちが悪い)。ヒルもいそうだ。私一人なら「すみません。ちょっと・・」といいそうだったが、好奇心旺盛なママさんはどこまでも突き進んでいく。私はへっぴり腰で二人の後におそるおそる竹をかきわけてついていった。

もうこれ以上進めませんと弱音を吐きそうになった瞬間、目の前に池が現れた。

写真だとよくわからないと思うのだが、10m四方の水たまりがあって。大きな木が根っこのところでつながって池の中から生えていた。こういうのを相生(あいおい)の木というのだそうだ。落ち葉もいっぱいつまっていていろいろ棲んでいそうだ(^_^;)

「水が澄んでいてとてもきれい」ママさんは大喜びだった。たしかに淀んではいない。もしかすると湧水なのかもしれない。

しばらく池の前で立ち話をした後、そこを離れた。「ヤマビルファイター」が効いたのか、ヒルには幸い食いつかれず、マムシも蛇も見なかった。せいぜいやぶ蚊にくわれたぐらいで助かった。

池を見学した後、ご主人にお話を聞いた。
名前は佐五地(さごじ)池というそうである。その昔、ヤマトタケルが伊吹山の賊を征伐に訪れた際、当地にあった大将宮神社に参拝した折、この池で手を清めたとおじいさんが書かれた「佐五地池と清水」に書かれていた。息子さんもあまり歴史には興味がないとのことだったが、おとうさんから伝えられていた伝説を覚えておられたのだろう。

大将宮神社を検索してみたが、ネットでは発見できなかった。ひょっとすると、大将軍神社の聞き違いかもしれない。とにかく清水神明社に合祀されたようなので、また調べに行こうと思っている。佐五地はしゃごじかもしれない。しゃごじとは石神で、東京の上石神井(かみしゃくじい)なども語源は同じかもしれない。

また、立田地区(古田と篠立をあわせて立田地区)には古い塚があると書かれている。この塚とは何か。ヤマトタケルとの関係は? その正体も調べたい。

おじいさんが昔書かれたという「広報 ふじわら」115号の「ふるさとの心をたずねて」を読むと、非常に興味深いことが書かれている。子どものころの懐かしい思い出とともに、清らかな清水が脳裏によみがえるようだ。

ママさんはいなべの歴史にとても詳しくて、いろいろ聞いていたらなんと、南朝の楠正行(くすのき まさつら)の子孫なのだという。楠正行は楠木正成の長男で、四条畷の戦いで死んだ。北勢地方は南朝関連の武将が多かったようで、藤原町には山城跡がたくさんある。多良との関連もあるのかもしれない。調べたらもっといろいろ出てきそうだ。藤原という地名も気になる。

一番大切なのは伝承が事実かどうかということより、それを長きにわたって語り伝えてこられた方々の思いであり、それを知ることで地域の未来にいかしていこうとする姿勢だと思う。また地域の歴史や伝承をすることで、古来地域が果たしてきた役割を知ることも故郷への愛着につながるだろう。

一見無駄に見えるもの、もはや用なしと思えるものにこそ、大切なものがつまっている。

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