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伝説は村と共に水底に沈んだ

この地図はかつて揖斐郡に存在した徳山村の部分をトリミングしたものだ。
時代は江戸時代である。

徳山村は徳山ダムの完成と共に、門入(かどにゅう)集落をのぞき、七つの集落(塚・櫨原・山手・徳山・上開田・下開田・戸入)が水没し、村の人たちは他の場所に転出した。完成まで実に半世紀以上かかっており、さまざまにマスコミをにぎわしたことを覚えている方も多いことだろう。

岐阜県の最西北端にあり、隣は福井県だ。

徳山湖 徳山ダムの湛水によって生まれた人造湖 水底に徳山村が沈んでいる

ところで、ここに室町時代(南北朝時代)の武将・新田義貞(にった よしさだ)の伝説が生きていたことをご存じだろうか。

新田義貞は源氏の一族で、足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇を助け、建武(けんむ)の新政の立役者となったが、後に尊氏とたもとを分かち、後醍醐天皇側(南朝)の総大将として活躍した人物だ。

最後は北陸に赴き、後醍醐天皇の二人の皇子とともに越前(現在の福井県)で活動したが、最期は越前藤島(現在の福井市)で討たれたとされる。

ところが、この時、義貞は死んでおらず、美濃の徳山村まで逃げて来たというのだ。墓にはなぜか仁田四郎由定と刻まれていたという。追われる身で北朝方にばれるとまずいので、このようにしたのだろうか。

徳山村に身を潜めていた義貞は村人たちに招待を見破られ、襲われる。そこで義貞は白山神社の杉の木に登って金をばらまき、短刀を加えて木から飛び降りて自害した。

義貞がばらまいた金はすべて金の蚕となり、北の「しっぺ谷」に逃げていったという。

その後、しっぺ谷から風が吹くたび村は火事に見舞われること七度に及んだ。そこでこれは義貞の祟りに違いないということになり、墓を建立して義貞の霊を慰めることにしたのだと伝えられる。

現在徳山湖にかかっている橋や隧道(ずいどう トンネルのこと)にはすべて村の伝承や歴史にのっとった、実にユニークな名前がつけられている。

マップのQRコードを読み込むと、その解説が読めるのだそうだ。

本当に義貞であったかどうかはわからないが、その残党が徳山村に逃げてきたのかもしれない。地理的にそう考えられる場所であり、徳山村からは隣の根尾村にも行けた。根尾村には一時期、義貞の弟の脇屋義助がいた。

まもなく岐阜県と福井県を結ぶ最短ルートが完成する。
義貞の伝説を追って旅することもできそうだ。




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