見出し画像

敗戦記念日と日ソ中立条約


ソ連対日参戦は、太平洋戦争の末期から終戦後にかけて日本本土や満洲国、朝鮮半島、樺太、千島列島などで、日ソ中立条約を一方的に破棄して大日本帝国に宣戦布告をし侵攻してきたソビエト連邦の赤軍とそれぞれの地域を守備する日本軍の守備隊との間で勃発した一連の戦闘である。

昭和20年(1945年)8月8日午後11時に、ソ連のモロトフ外務人民委員が、佐藤尚武駐ソ連大使を招致し、そこで佐藤大使にソビエト政府の対日参戦を宣告する。そして、翌日の8月9日午前1時にソ連軍が満ソ国境を越えて攻撃を開始した。

最終的には日本の降伏を招いたが、終戦後もソ連赤軍は侵攻を続け、現在の北方領土を占領した。また、その過程でソ連軍による日本の捕虜や民間人に対する苛烈な強姦や虐殺が行われ、現在でも日露両国間で禍根を残している

この戦闘により、ソ連軍および中国兵による陸軍兵及び満洲・中国居留民への虐殺事件やシベリア抑留・中国残留日本人の問題が発生した

wikipedia

国際情勢

ソ連は1943年(昭和18年)のクルスクの戦い以後、対ドイツ戦で優勢に転じていたが、同じころアメリカとイギリスは対日戦で南洋諸島やインドを中心に攻勢を強めていた。フランクリン・ルーズベルト大統領は、太平洋戦争での日本の降伏にはソ連の対日参戦が有益とみていた1943年10月、連合国のソ連、アメリカ、イギリスはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、ポーツマス条約でロシアが失った南樺太、および1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約で平和裏に領域全体の日本領有が確定していた千島列島をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。このときソ連はドイツを敗戦させた後に参戦する方針と回答した。

1945年昭和20年)2月のヤルタ会談ではこれを具体化し、ドイツ降伏後3ヵ月での対日参戦を約束。ソ連は1945年(昭和20年)4月には、1941年(昭和16年)に締結され、5年間の有効期間を持つ「日ソ中立条約の延長を求めない」ことを、日本政府に通告したヨーロッパ戦勝後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、ソ連と満洲国の国境に、陸軍による軍事力の集積を行った。

日本政府は、日ソ中立条約を頼みに、ソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に持ち込もうとした。しかしソ連が中立条約の不延長を宣言したことや、ソ連軍の動向などから、ドイツ降伏一ヵ月後の戦争指導会議において国際情勢について議論した。この中で「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(1945年(昭和20年))の8月か遅くても9月上旬あたりが危険」「8月以降は厳戒を要する」と結論付けた

情報認識

6月大本営の第五課課長白木末政大佐は新京において、状況の切迫性を当時の関東軍総参謀長に説得したところ、「東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だとし、今にもソ軍が出てくるようにみているようだが、そのように決め付けるものでもあるまい」と反論したと言われており、ソ連軍の攻勢をある程度予期していながらも、重大な警戒感は持っていなかった
関東軍の部隊が南方戦線へと徴用されていた為、満洲の長い国境を防衛出来るだけの十分な戦力は既に失われていたが、中立条約を信じ切っていた関東軍や満洲国の要人等は、その家族を空襲に遭っている日本から満洲へ連れて来ていた

関東軍の前線部隊においては、ソ連軍の動きについて情報を得ており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日、直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地貞吾参謀に情勢判断を求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。

他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕キスカ撤退により千島への圧力が増大したことから、同地域における対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。が、1945年(昭和20年)5月9日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、再び対ソ作戦に転換する。このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識されるが、兵力が限られていたことから、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しないこととした

ポツダム宣言受諾後の戦闘

外地での戦闘が完全に収束する前に、1945年昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日終戦詔書が発布された。8月16日、大本営は大陸令第一三八二号により陸軍全部隊に対し「即時戦闘行動ヲ停止スヘシ」と命じたが「止ムヲ得サル自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ケス」と自衛戦闘については除外した。その後、大本営は停戦命令を段階的に「強化」し、25日に自衛戦闘を含む一切の戦闘行為を禁止した。樺太では23日、千島では25日までに戦闘が停止したが、満洲では命令伝達の困難から8月末まで戦闘が継続したソ連は日本と連合国が降伏文書への調印を行った9月2日の後も作戦を継続し、9月5日、ソ連軍は一方的な戦闘攻撃をようやく停止した

8月19日の15:30(極東時間)、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。これを受け、8月24日にはスタフカから正式な停戦命令がソ連軍に届いたが、ソ連軍の進軍自体は1945年9月2日日本との降伏文書調印後も続いた。結局ソ連軍は、満洲朝鮮半島北部、南樺太千島列島択捉国後色丹歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、その進軍を停止した

在留邦人の状況

昭和20年春からの「根こそぎ動員」により壮年男子が召集されていたので、開拓団には老人、女性、子供ばかりが残され、僻地の開拓団にはソ連参戦も日本敗戦も伝わらなかったまた、日ソ開戦前に関東軍が主力を北朝鮮方面に後退させたので、ソ満国境附近の日本人開拓移民は戦場に取り残され、混乱の中で多数の犠牲者や孤児が出ることになった。大半の開拓移民や居留民は荷馬車に荷を積み徒歩で都市部に向かう途上、ソ連軍や現地の暴徒の襲撃を受け、戦死あるいは自決、病死、栄養失調死も多かった。

ソ連軍首脳部は日本軍と日本人に対する非人道的な行為を戒めていたが、それはソ連軍の現地部隊にはしばしば無視され、正当な理由のない発砲・略奪・強姦・車両奪取などが堂々と行われていた。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していった。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封殺され失われていた。
避難する日本人集団もある程度の武装を持つケースも多かったものの、しばしば無抵抗であっても日本人避難民の集団に対し、ソ連軍が爆撃や機銃掃射を浴びせるケースがみられた。さらに逃げる在留邦人を、匪賊ばかりか時には一般の現地の農民が暴徒となって襲撃し、略奪あるいは虐殺して死者の衣服まで奪い取って行く事件が多発した

8月14日に起きた葛根廟事件では、避難していく千人を超える避難民に対しソ連軍戦車が数度にわたって機銃掃射を浴びせた後、戦車や自動車から降りてきたソ連兵は生死を確かめて射殺あるいは銃剣で刺殺していった。ソ連兵の中には女性兵士もいたが、彼女らも女・子どもが多い避難民を射撃していったとされる。なおも生き残った者も、多くが家族らを道連れに自決した。さらに残った子どもらには地元民に引取られる者もいて、後に見る残留孤児の問題につながっている。家族ごと生き延びても、暴民に子どもが拉致され売り飛ばされたケースもあった
吉林省扶余県の開拓団の事例では、親しかった中国人が暴徒襲撃の情報を教えてくれたので、竹槍などで武装して戦ったが、中国人暴徒の数は2000人にも及び、婦女子以下自決して272名が死んだという。そのほか、敦化事件牡丹江事件麻山事件などが起こった。
このとき内地に戻ることができず現地に留まった在留邦人は中国残留日本人と呼ばれており、日中両国の政府やNPOによる日本への帰国や帰国後の支援などにより問題の解決が図られているが、終戦から70年がたった後でも完全な解決には至っていないのが現状である


よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは劇団活動費などに使わせていただきます!