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私のこと②

 高校時代の話をしようと思う。高校時代は正直いうと、楽しくなった。ただただ勉強に3年を費やして、それすら報われずに自尊心さえすり減らした3年だった。

 中学時代、私は一番輝いていた。学年トップ10常連で勉強ができて、部活動もこなし、友達も男女分け隔てなくいたし、女のグループ間を渡り歩ける貴重な女だった。勉強ができた私は、所謂自称進学校と言われる高校に入学した。東大もしくは京大に入った生徒がいる代をのち3年はもて囃すレベルの自称進学校である。進学校(笑)といった風だ(当時は知らなかったけど)。合格発表のロール紙に印字された数字を見た瞬間が私の人生の絶頂である。

 高校の勉強に全くもってついて行けなかった。地方中学の中の蛙、進学校を知らずである。後から知ったことだけど、私はどうも合格ラインギリギリだったらしい。こんなことなら落としてくれ。

 どれだけ勉強しても追いつけない、わからない。わからないのに話が進むから、余計にわからなかった。「何がわからないのかわからない」という言葉の意味が初めてわかった。数学で赤点を回避した試しがない。無口で読書好きでクソ真面目そうな分厚い眼鏡をして赤点常習者なのだから笑えなかった。

 ただただ人権が消えていった。自称進学校では勉強のできる者のみが上位に立つ世界なのだ。下位層に人権はない。苦しい、やってもやっても、できない。中学時代に勉強ができた反動からか、余計に勉強ができない自分自身を許せない。初めての挫折だった。

 勉強ができない、隠キャ、ブスのとんでもない三拍子が揃い、私は同級生の男から陰口を叩かれるようになった。笑われている気がするのか笑われているのかわからない。でも、勉強のできない自分は悪口を言われて当然だという気持ちもどこか確かにあった。「勉強のできることが全て」という刷り込みがあの高校にはあった。身体がおかしくなり授業に出られなくなった私は、保健室にいくふりをして実技棟3階のトイレに立てこもっていた。保健室に行かれなかったのは養護教諭に理解がなかったからである。普通にできない自分が嫌で、この世界で一番劣っていたのは私な気がした。ここから飛び降りたら楽だろうか。トイレの四角い窓から真下の自転車置き場を見ていた。

 笑っている男の人が怖い。笑い声が聞こえると、自分のことを、私が馬鹿なことを、私のブスな顔を笑っているのかと不安になる。クラスメートの会話に耳をすます。良かった私の話じゃない。同年代の男の人が怖くなったのはこの頃だった。余談だがこの症状が改善されたと思った大学時代に自動車学校に通ったら、教習所の若い男性教官に対してもまたこの症状が出て根が深いなと思った。

ともかくごろごろと面白いくらい転げ落ちて、私は病気になっていた。病院に行き三食食後に薬を飲み始め、学校も先生もクラスメートも自分自身も全部呪った。


 黒板に正の字で書かれた『2組可愛い子ランキング』に自尊心が擦り切れて、『E判定』と『Fラン』の言葉にまた自尊心が擦り切れた。私には何もない、勉強もできないし顔も可愛くない、面白いことも言えない。

 良いところが何もない。

 そんなことをずっと考えて、逃げるように卒業した。早くこの制服を脱ぎたくて仕方がなかった。

 中学のころ、私は、皆のことが好きだった。友達も先生もクラスメートの男の子も、自分自身も好きだった。それなのに高校を卒業した私は誰も愛せなかった。何もかも嫌いで、憎くて、何より自分自身が一番嫌いだった。3年間でいろんなものを失ったと思う。失ったけど、一番失ってはいけないものだったと思う。

 「良い大学に入って、良い会社に入って、そしたら、君たちの未来は明るい」と進路指導の先生が言っていた。文武両道の文字を掲げた体育館の壇上で。ああ、まだ先が長いのか、と思う。失敗が許されないレールだ。たとえ大学受験に成功しても、就職試験に失敗したら未来は明るくないのだという。就職試験に成功しても、パートナー選びに失敗したら、子育てに失敗したら、未来は明るくない。「明るい未来」ってなんだ。「明るい未来」ってどこにあるんだろう。いつまでも幾つになっても「明るい未来」を追い求めていく。

 そんなの死ぬまで、「明るい未来」なんてやってこない。

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