才能とか、糖質制限とか、自由とか規制とかについて考えたこと(具体的な実践的なことは書いていません。体調不良のため、以前思いついたことをダラダラと書いた)

2024_08_18_才能とか、糖質制限とか、自由とか規制とかについて考えたこと(具体的な実践的なことは書いていません。体調不良のため、以前思いついたことをダラダラと書いた)

読み直していません。誤字・脱字多数です。
自分で「こう伝えるつもり書いた文章」が、逆とか、別の理解・解釈になるように書いている部分もたぶん、あると思います。

飛ばし飛ばしに読んで、なんか、興味ある文章があったら、その前後から読む読み方がいいと思います。

どうでもいい人には、どうてもいいことしか書いていませんから。



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文章の1部、全部コピペ自由です。無断でやって構いません。
文章の1部、全部を加工して、自由に使って構いません。無断でやって構いません。商業利用、有料利用も自由です。

この文章で、通用する人には、不幸が弱くなった人、解消されたり、人生が良い感じになればいいと思っているので、広まればと思います。(という割には、読み直さない超絶矛盾があるけど)
広まった?知った結果?、新たな不幸や悲惨が起こるかもしれません。
不幸は、最終的に、天災や運命的回避不能なコトと、
誰かの私利私欲と、支配するための闘争と、自分が感知しない遠くの他人を理不尽に犠牲にすること、人と距離が置けない事と、誰にも愛されない(大切にされない)生き方が、あると思うで、それが人間の業とかというヤツなんだろうなと思います。それを自制して、協定を結んで維持しようとすることもなく、自己成長することもないのが、人間ってもんだと思いますから。(その代表者が私です)人が作り出す不幸はこの世から、消えることはない。
まあ、天災・運命的回避不可避の不幸と、私自身が私で作り出す不幸以外が消えて、私の考えが間違いでしたと認識させてくれたら、それはそれで良いかなと思うけど。

コメントは、気が向いたら見ます。たぶん、今は、見ない。
でも、いずれ見ると思います。まあ、コメントをワザワザ書く人もいないだろうけど。というか、こんな記事・長い文章、読む人も少ないだろうけど。

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本題

2024_08_18_才能とか、糖質制限とか、自由とか規制とかについて考えたこと(体調不良のため、以前思いついたことをダラダラと書いた)

3日前に体調不良が起き、、この文章を書き終えた頃にやっと体調がまあまあ良くなりました。でも、脳が疲れているので、この記事とは違う作成中の記事を完了させる作業はできません。もし、私の新しい記事を待っている方がいたらすみません。

体調が良いが持続するところへ、引っ越したい。
家に居ると、体調が悪くなる。
暑いから換気をしているのと、
シンワ測定の「CO2/2酸化炭素」測定器を部屋に置いている。
窓を開けず、部屋の扉を閉めると、
30分から1時間ぐらい1000ppmを越える。

部屋の扉を開けていると、500ppm台が維持される。
窓を開けると、シェディング臭がする家から臭いが入って来る。
もう窓を開けなくて数か月経っただろうか、昨年は、気にせず全開にしていた。
その時は、時々に臭いがしてきた。

もう少し、空気を浄化を強めなければならないか・・・。
ずぼらだから、少し体調が良いとこれ以上何もしなくてもいいかと、過ごしてしまう。

3日前に、寝ていて、脈がドックンドックンと酷い状態で起きた。
外食したり、外のスーパーの駐車場で待っている時に窓を開けて待っていた時にも起こるから、シェディングで間違いないと思う。

シゲマツの粉塵マスクをしていると、脈ドックンドックンにはなりにくい。ただ、スーパーなどでは、左足の甲が痛む。最近はなくなったが、左手の甲が痛む時もあった。あと、今でも、左手の親指の先を、左手の薬指の根本?に押し付けるように左手の親指だけのでやると、つるような痛みが生じる。

でも、以前よりもはだいぶ良くなった。
6月上旬から、低濃度オゾンと、UV-C紫外線ライトを使って、シェディング空気浄化を始めた。これから、けっこう体調が良い時も増えたが、
暑くなって、換気を高めて駄目になった。

シェディング被害がなければ、糖質制限が出来る。
糖分を取らなくても大丈夫になる。とってもわずかな果物で足りる。
12時間から20時間は水やお茶ぐらいで足りる。
そして、それぐらい食べなくても、クタクタにならずに、料理が作れる。

やられた状態になると、体がクタクタになり、低血糖にもなり、
まず、何かを食べないと料理も作りたくない。作っている最中も立っていたくない。

とある方の記事を見ると、糖質制限が上手くいかなくて、より不調になる方もいると思い出した。以前も見ていたが、忘れていた。

個人的な経験として、
糖質制限ができる・できないというは、
今の自分自身の状態や、
今、自分が生きている環境の判別に繋がる。

糖質制限ができないのは、
自分の中かが悪いか、
環境が悪いかの
どちらか該当するか、両方が該当する。

糖質制限ができて、
シェディング空気・有害空気を受けず、
スマホ・WiFiなどの電波の有害エネルギーを受けなければ、
(女性なら、化粧品に含まれる有害物質も考慮しなければならないかもしれない)

相当、頭が回転する。
読書をしていても、スラスラ読める以上に、
頭に刺さってくるし、
読みながら考えることもできる。
解らないことも調べながら読める。

糖質制限ができない時は、
理解にも集中が必要だったり、
読書とか、やる気もおきないし、苦痛に感じる。
解らないことも、飛ばして読む。

シェディングで、廃人に近い状態の時は、
読んだ内容が、すっぽり忘れている感じがある。
次の日とか、同じところを読んでも、読んだ感がない。

いずれ、別の記事名で投稿しようと思っていたが、
才能を開花するためには、
「無自覚の脳」の回転力が必要になると、自分は考えている。

才能とは何だろうか?
才能の定義は、学校で習うのだろうか?
私は、劣等生だったから、習った記憶が無い。
授業を聞いているふりと、眠たくなったら眠るという、
せっかくの税金で教育を受けるチャンスを無駄にする人間だったから、
習った記憶が無い。
親が、苦役的な時間を過ごしてお金を稼いだ重みを知らずに、無駄に過ごしてしまった。すまない。

才能の定義は、
人それぞれだと思う。

人それぞれが定義していること、
才能とは〇〇である、と断定機に主張することは、
自分とは違う考えをする人間にとっては、良い気分のモノじゃないだろう。

自分の場合もそうだが、「それは違う!」と反応をしたら、
反論したくて仕方がない。

1+2=5というように、事実的なことは存在するが、
解釈的なモノは、人それぞれだ。
解釈は、理由のコジツケという側面もある。
だから、数多くの考え方を学んで来て、悪意を持てば、もっとも らしい理由を考え出す事だってできる。自分の狭い見識では実際にあるのか解らないが、そういうことを専門と言うか業務の主たるモノとやっている人もこの世の中にはいるだろう。
もし、存在したら、
どうして、そんな仕事を主たる業務としてする必要があるのか?

何かを成すことで、何かを得ることができる。
そして、何かを得ることに価値がある。
とまでしか言えないな。

才能というのは、「好きな場合」もあるが、「好きではない場合もある」
結局、「好き」という感覚・感情・気分は、大して重要じゃない。

重要なのは、「興味がある」ということだ。
そして、才能となるモノは、
「興味を持ってしまう・持たずにいられない」というモノだと思う。

自分は脳が回転すれば、何かと考えて、解明的なことをしたり、何が解らないのか考えたり、考えの思い込みと、事実を分けたり、
自分の思いついた法則のようなモノを再度注釈を入れて、
この場合は通用するけど、ある場合は通用しないなどを考えてしまっている。
「考えてしまっている」
考えないようにしないと、ついついやってしまう。
脳と精神が元気なら、たぶんそれで1日から数日、それで過ごせる。

だから、己惚れであるけど、自分は、ある方面に対し、
そこそこ考える力を持っていると思う。
そして、考えてきたことから、考えた故の知識もあると、己惚れている。
疑問に思って調べたことの知識もあると、己惚れている。
ただ、他人に自信を持って言えるほど、ハッキリ記憶していないし、自分で通用するなら、こんなモンでいいだろう、ぐらいでやっている。

だから、確認して記事を書かなければならないとなると、
1つ1つ、確認できることは確認する。それで勘違いでなければいいが、
勘違いだと、考えて、内容をそのままにするか、書き換えるかとか、考えなければならない。どちらにせよ、ある程度は責任をもって文章は書いている。

ただ、主流的内容をなぞって、書いていないから、目をつけられて、攻勢をかけたら、面倒になるなら、「妄想」というテイを取っている。
(実際に妄想という場合もあるけど。さてこれは本音だろうか、建て前だろうか?)

才能の話だった。
才能というのは、「興味を持ってしまって、ついついやっている」ことだ。

そして、「才能」というのは、普通の人ができないことをできる、というモノだ。
たぶん、技術的なモノと、我慢的?なモノがある。
これは、今思いついたのだが、
普通の人は集中力や精神が持たなくて、続けられないことを精度を落とすことなくできる人がいる。それは、才能だと思う。

ただ、才能はすぐにお金の稼ぎに直結する訳ではない。
業界的に、才能をお金に稼ぐ体制を構築されている場合は、お金になるが、
才能が、お金を稼ぐシステムが構築されていない場合、
才能があっても、お金にならない。

自分もそうだったが、人間とは卑しいモノで、
他人の才能を見出しても、それを伝えず、ひっそり用いる。
そういう場合は、才能はお金にはならない。

お金を稼ぐというのは、自分で直接稼ぐのでなければ、
お金を直接 稼ぐ人間に依存してお金を稼いでいる。
だから、自分がいくら有能な働きをしても、
お金を直接 稼ぐ人間が、お金をたくさん取り分を持っていく。
それが、この社会だと、自分は思う。
もちろん、そうではない人もいると思う。
自分は、実際の絶対数の把握は無理だから、自分が見える、感じる範囲で、
社会はこういう人が多いだろうという推測という名の思い込みをしている。

個人的に「資本主義」という言葉は嫌いだし、
「資本主義」と言う言葉を使う人間は、思考力を奪われている人間か、
思考力を奪われている人間を、都合よく利用したり、納得させる言葉だと思う。
1つに言葉に複数の意味ある「曖昧な言葉」は、考える事や思考に向かない。
正確に言えば、
1つ言葉にある複数の定義のうち、
どれか1つの定義で考えれば、
どれか1つの定義での結論になる。

だが、議論や主張をする時に、「定義を明確にしていないから」、
「それは違う」、「そう思う」というのが、起こる。
資本主義とは何かということを語るのは、アレなので控えておく。

ただ、
お金を直接 稼ぐ人間が、お金をたくさん取り分を持っていく
というのは、「自由商売主義」や「自由労働者使用主義」である。
規制がない・規制が緩い「自由商売主義」や「自由労働者使用主義」である。
その究極は、「契約・合意」さえすれば、
低給料・劣悪環境・いずれば不調や病気になる労働をさせても問題ない。
法的に。法的、つまり、何らかの制裁や処罰、法的な罪になる懲罰的なモノを受けさせられる というのがない。簡単な事では言えば、一番搾りを取るとにごしておく。

才能の話だったな。
でも、せっかくと言う名の自分が書きたいだけなのだが、
自由と言うのは、「ワガママ」と「抑圧からの解放」の2つの意味がある。
私のようなに、強欲で、無慈悲な人間は、解りやすく言えば悪魔のような人間が私なのだが、そんな人間の「ワガママ」は、他人を犠牲にする「ワガママ」になることが、多々ある。
ワガママというのは、「権利」でも、できる場合があるが、
大抵場、ワガママを強行できる「種々の力」が必要になる。
途中説明を省けば、強い人間がワガママを強行でき、
弱い人間は、強い人間のワガママ=「理不尽・不道徳」に従わせられるか、犠牲にされる。被害者にされると言っても場合もあるだろう。

弱い人間は、強い人間のワガママ=「理不尽・不道徳」に従わせられるか、犠牲にされる。被害者にされると言っても場合もあるだろう。
から、解放されることも「自由」という意味でも使われる場合もある。
もっと言えば、
不当な理由であっても・正当な理由でも
「何らかの抑圧」から解放された時を、「自由になった」と言うことが
言えると思う。

自由も曖昧な言葉で、
理不尽に抑圧をすることに対して、使うなら、「自由」は、大切で尊いモノで、奪われてはいけないモノである、と自分は思っている。

しかし、私がやるような「悪魔のワガママ」は、規制されなければ、弱い人間は、「何のために産まれてきたのか?」、「私達は、誰かの都合によってのみ生きる・死ぬ存在なの?」という人生というか、そう思わざるを得ない状態になる。
だから、私がやるような「悪魔のワガママ」の自由は、醜く・酷い。理不尽故の不幸を多々生み出す。
まあ、それ故に、「美味しい部分」や「富」の部分が手に入る人間がいる。

規制も同じで、理不尽・不道徳を、規制することは、
「大事なこと・大切なこと」だが、
理不尽に、不道徳に、何かを規制することは「抑圧」とかになる。
「抑圧」だったらいいけど、いや、それも良くないけど、
「抑圧」以上の、無力化とか、服従せざるを得ないとか、そういう規制もある。

自分は、
法律・規制・ルールというのは、「自由の侵害」だと思う。
ただ、公共の福祉?のためには、
「自由の侵害」の法律・規制・ルールが必要だと思う。

ということは、民主主義には、絶対持っている知識・知見・認識だと思うが、
先に書いた、税金で無料で受けれられる教育には馬鹿過ぎて真剣に聞けるだけの集中力も理解力もなかった。有料の教育も同様である。
だから、自分だけ、民主主義には、絶対持っている知識・知見・認識が、
学んでいなかったのかもしれない。
それを、考えて、「閃いた!、考えた故にこう言えると解明した!」と
言っているのは、恥ずかしいことかもしれない。
そうだったら、良かったと思うが、
狭い見識・見聞の中で、そうだと思えない。

才能の話に戻る。
才能とは、「興味を持ってしまう、ついついやってしまう」もので、
普通の人にはできない技術か、
我慢してやり続ける(本人は我慢していないと思っているかもしれない)ことで精度を落とすことなくできるモノ
だと思っている。

「普通の人にはできない技術」というのは、
大抵のことは、「追及・研究・試行錯誤」をしていかないと、
「普通の人にはできない技術」にはならない。

そのためには、「必要」というか、「あった方が良い」のは、
「無自覚の脳の回転力」だと思う。

自分は、手先が不器用な人間だが、
器用な人間というのは、
「不器用な人間」よりも、「考えて(無自覚に考えて)」、手を動かしている。
微妙な感覚にも拘っている?拘れる?

不器用な人間は、雑に手を使い、いつもワンパターン。そして、微妙な調整をする気もないし、やる気もない。やっても面倒で、詰まらなくて、ストレスで、なんでそんなことをして生きなければならないか?というぐらい「やりたくない・拒否感」を持って、無理やりやっている。
と思っている。自分の場合はそうだった。

自分の考えることもそうだが、
「興味あることについて」「ついついやってしまう」ことに対して、
「追及・研究・試行錯誤」を「ついついやってしまう」から、
才能が磨かれていく。

特に誰かに強制されない時は、これが重要になる。
つまり、
子供頃から、その子供自身の才能を磨くために必要になる。

「興味あることについて」「ついついやってしまう」ことに対して、
「追及・研究・試行錯誤」を「ついついやってしまう」
ためには、環境とか、機会とか、チャンスとか、時間も必要だが、

脳が回転するか、どうか、が重要になる。

「追及・研究・試行錯誤」をやらずにはいられないぐらいの「脳」の回転をしている人間と言うのは、それほど多くないと自分は思い込んでいる。

「追及・研究・試行錯誤」をやらずにはいられないぐらいの「脳」の回転をしたら、テレビゲームはもっと難しくなり、簡単なゲームは、詰まらないと言われてほとんどの人がやらないだろう。
自分はそれほどゲームをやる訳じゃないし、やってみ、昔のプレステ2やスーパーファミコンぐらいだから、今のゲームは解らないけど、たぶん、今のゲームもそれほど難しくないと思う。
難易度を上げて行けるシュミュレーションゲームをやったことがあるが、
勝てなくて、詰まらない。快感がない、ストレスだけがある。多少は考えて乗り越えて勝とうと思ったが、そこまでしてこのゲームをやりたくない、と思ってやめた。
でも、人によっては難易度を高くしてそれをクリアしようとする人がいる。
そのために「考えることをやってしまう」人もいる。

話を戻して、
子供頃から、
「追及・研究・試行錯誤」をやらずにはいられないぐらいの「脳」の回転をしていなかったら、
テレビゲームを「ただ、やる」、「クリアする」程度の日常しか送らない。
自分は、そういう日常を送ってきた。
そういう日常を送ってきた人間に、中学卒業の頃に、何か特化した才能の発芽?的なモノを持っているかと言えば、まったくない。
もちろん、高校、大学、就職、そのどの時にも「才能の発芽」を持っていない。
そもそも、自分が何の「才能の種」を持っているのか、自覚もない。

才能を
単なる普通の人にはできない技術だけ、
言うのは、浅はかなモノだと思う。
たぶん、違う定義もあると思う。

才能がなくても生きていける、というか
才能がなくても生きていけるから、この社会システムがあって、
仕事を通して社会的役割を果たすという、建前が、
一部ではぶっ壊れていると感じざるを得ないが、

この社会は、才能を開花しないで、
とりあえず(じゃなくても)、働けっていうのが、あって、
それで、一部にト・ミ・ィが集まっている、と自分は思っている。
だから、特定の分野でかつ、少数だけ才能が開花してくればいいのであって、
あらゆる分野で、すべての人間が才能が開花している必要はない。

ただ、人間と言うのは、欲深いモノで、
才能があれば、もっとお金が稼げて、豊かな生活できる!
才能を開花することは重要と思っている人は、いると思う。

そのためには「糖質制限・電波うんぬん」はどうでもよくて、
結果的に
「ついつい興味があることを、ついついやってしまう」に対して、
「追及・研究・試行錯誤」をして、
「知識・技術・経験知識、経験感覚」を増やしていく。
そして、ある段階になると、たぶん、
自覚して、
「欲求の高み・実現したい欲求の高み」を持つようになる。
今、ここで「この壁」越えたいみたいな。

課題がある程度、難しい方が、「おもしろい、つまらなく無い」と感じるようになる。
簡単なことは「つまらない」と思って興味がなくなる。

って、
そのためには「糖質制限・電波うんぬん」はどうでもよくて、
結果的に
の文章に繋がっていない。まあ、いやや。

先に書いたことが、
「無自覚でできる脳の回転力」が必要になってくる。

「追及・研究・試行錯誤」をすることを「無自覚でできる脳の回転力」
を発揮するために、
自分は、
「糖質制限ができる身体であること」
「糖質制限ができる環境で過ごす・生きていること」
だと思っている。
もちろん、別の方法もあると思う。

もし、というか、なんでもそうだが、
自分が望む結果のために、
自分にあった方法=(自分が望む結果になる)効果的方法」をすればいいと思う。

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自分が糖質制限ができなかった時代や、
自分が糖質制限ができなくなった時を考えると、

・糖質制限ができる体になっていない
・糖質制限ができる栄養摂取をしていない

・有害物質を曝露過多
・有害エネルギー曝露過多

・心理・深層心理状態
・甘いモノを食べたい気分、精神状態

がある。
糖質制限ができて、できなくなると、
・有害物質を曝露過多
・有害エネルギー曝露過多
に、敏感と言うか、「察知する」ことができる。

だから、自然に「有害物質 含有物」がある程度わかってくるし、
身体に悪い「有害エネルギー」もある程度解って来る。

時間があって、お金がある程度あって、
何を調べる環境や、書籍等を買えて、
脳が回転し、理解力が高い、
脳が回転し、疑問が生じ、何に疑問を生じているのか、違和感を感じているのか、言語化し、疑問・違和感を調べたり、考えていく。

そういうことが、できれば、
今の「何か」の疑問の仮説的な結論でも出るようになってくる。

まあ、そういうことができた場合、
「今の苦しい状況、辛い状況、哀しい状況、可哀そうな状況、悲惨な状況」の理由が解って来て、
それはそれで、辛いし、切ないし、絶望的だし、悔しくもなる。
嫌な気分が嫌なら(文章がアレだけど)、そういうことはしない方がいいと、思う。
「どうして、こんなことになってしまったの?」という、
問いて、答えを出さない、いわゆる悩み続ける方が、幸せとは言わないが、
知り・結論を出し、嫌な気分になることを避けたい人間は、そういうのもアリだと思う。

とは言え、「辛い状況等」というのは、
状況を変えなければ、解消されない訳で、
知り結論を出して、嫌になる気分になるか、
解らなくて(考え知らべ考え結論を出さない)で、悩んで、嫌な気分の2つしかない。
大した問題でなければ、「考えない・囚われる」ように意識すれば、
時間がかなり経てば、どうでもイイコト、拘っていた、悩んでいた、ということになる。

だが、
自分にとって大した問題であれば、
「考えない・囚われる」ように「何で現実逃避」していても、
何かの拍子に度々突き付けられる。

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