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ピンクムーン



「俺は熱心に生きているから、そのうち迎えが来るかもしれない」

父は酔うと口が達者になる。

「先祖が北欧生まれだから、寒いのが好きなんだ。夜も好きだ。俺はきっとけものだった。」

「だから迎えは月から来る、あそこは暗くて寒いんだろう。そこで俺はけものに戻る。」

ばからしいことを本気で言う人だった。

そんなことを赤い顔でつらつら話すような人は月にお迎えなどしてもらえないだろ、と思って内心笑っていたが、そう話す父の顔はどこか予言めいてもいて、本当は、少しヒヤヒヤしていた。


それから十数年、若かった父も本格的におじさんになり、私は独り立ちした。父の言っていたお迎えとやらは未だ来ていない。街の方に出て仕事を始め、一人暮らしの私は、父と夕食後の時間を共にすることもなくなり、顔を赤くして予言する父をもう随分と見ていなかった。
父はそういうロマンチックなんだか違うんだかということをよく言う人で、うんと小さい頃はそれに触発されて、夢にペガサスとかファンシーなモチーフが出てきた時もあった。でもそれも本当に一瞬だけで、すぐに酔っ払いの寝言だと思うようになったが。

春先だというのに、とても寒い日だった。帰ると同時に暖房をつけて、ぬくぬく布団にくるまって⋯。そういえば、今日は月がすごい色をしていたことを思い出して、カーテンを少し開ける。少し低い位置にいる、大きくて丸いピンク色の月。

本当のところ、父は本気で月がお迎えとか、けものだとか言ってるわけじゃない。別に、なりたくもないのだろう。
父は、自分が死んだ後、月でけものになったと囁かれるだけでいいのだ。私たちが父のことを思い出した時、生きていた父の切なく甘い記憶よりも先に、月やけものを思い出して欲しいだけなんだろう。

窓に映る大きな月。薄くピンクに染まった月。
指でけものの輪郭をなぞる。指のあかが、窓にけものを残した。父はいつか、私たちの中で、お迎えされた月のけものになる。冷たい月を駆けまわり、時には月の模様を変えて遊ぶだろう。そんな優しい幻想の中で父は、とても自由な姿をして私の前に現れてくれるようになるのだろう。


そんな感動的な夜の後日、酔って上機嫌で電話をかけてきた母に、父がけものなら、母も月のうさぎになるのかと聞いた。
母は心底嫌そうに、嫌だあんな寒そうなところ、と言って、

「あたしはリゾート地の熱帯魚になるよ」と笑った。

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