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浮かんで、光って、消える

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「あら、あなた、ここは初めまして?」

重たい瞼を開けると、そこには1人の女性が佇んでいた。凛とした大人びた雰囲気をまとっている。綺麗な目玉焼きのような目には、長いまつ毛がくっついている。鼻はスッと真っ直ぐに伸び、輪郭は顔全体のバランスを整えるようにそこにある。美しい顔立ちだ。彼女と私の視線が重なる。なぜか、彼女は驚きに似たような表情を浮かべている。彼女は不思議そうに微笑みながら、もう一度私に尋ねる。

「ねえ、あなた、ここは初めましてなの?」

ふわふわと柔らかな気質を思わせる声だ。スッと聞き心地の良いその声は、あくまで自然に、親しみを持って私に響く。

「いえ、何度か来たことがある気がします」

「あら、そう」

そう言って、彼女は微笑み、ただ座り込む私を見つめ続けた。

ずっと、長い夢を見ていた気がする。どんな夢か、ほとんど覚えていない。ただ、漂っていたという感覚だけがある。そう、この目の前の視界に広がるような色彩を感じながら、私はこの空間を漂っていた。
そんな夢だった気がする。だから私は何度か来たことがある気がしたのだ。夢に見た世界に自分の意識があることがわかると、少し嬉しくなった。漂うことしか出来なかった世界に、今、私は生きている。

目の前に広がる景色を見渡す。ここは透明に煌めく空間だ。壁は何色もの色で彩られ、その色は自由に変化し続ける。温かな赤色が主役になったかと思えば、すぐさま淡く鮮やかな青色に変わる。また別の色、別の色と同じ顔を見せない。それが一定の周期で何色にも輝いて見せる。多色透明な世界だ。

空間は綺麗に丸くなってみたり、楕円形になってみたり、一つも同じ形に収まらない。なんとも落ち着きのない世界である。地面はふわふわと揺れ動き、一定の弾力さを感じることができる。揺れながら、漂いながら、次々とその形を変えていく。

「あなた、ここがどこかわかる?」

出会いから長い沈黙を経て、彼女が問いかけた。彼女の表情から先ほどの微笑みは消えている。代わりにハッとするような真面目な眼差しが私に向けられる。瞳は強く発色している。女性の私ですら引き込まれそうな、美しい眼差しがそこにある。私は立ち上がりながら、彼女の質問に答える。

「ここがどこか、よくわかりません。記憶にあるような、ないような、その程度の感覚です」

そう伝えると、彼女は柔らかな微笑みを浮かべた。

「あら、それじゃあ、教えてあげる。ここは」

シャボン玉の内側の世界よ

「シャボ、ん、ダま、のせかい?」

私にはシャボン玉が何なのか、見当がつかなかった。私にはわからないことが多い。記憶にあることは夢を見ていたことと、私の歳が15だということだけだ。何がわからないか、わからない。例えば、目の前で私を優しく見つめる人物が女性であることはわかる。おおよそ20代後半くらいから30代前半くらいだろう。しかし、私が何でどんな名前が付いているのか、シャボン玉が何なのかはわからない。もちろん彼女が何者かもわからない。そんなキョトンとしている私を見かねて、彼女がこの世界の概要を教えてくれた。

「まず、シャボン玉というのはね、石鹸と空気で作られた泡なの。私たちは、外の世界で生まれた一つのシャボン玉の中にいる。誰かが無邪気に作り出したシャボン玉の中に」

「誰かが無邪気に生み出した、せかい?」

石鹸も空気外の世界のこともよく分からなかった。彼女が説明してくれた中で理解できたことは、石鹸は掴めるが空気は掴めないこと、掴もうとすると割れてしまうのが泡ということくらいだ。私たちはそんな、空気中に浮かぶ泡の中にいる。

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「外の世界には様々なモノがあるの」
そう言って彼女は人差し指をまっすぐに立て、頭上を指差す。細くしなやかな指だ。

外の世界には様々なモノがある。頭上を見上げると広がっている空間が「ソラ」というらしい。青色の絵の具を溶いた水溶液のように青い。吸い込まれるような青さには親しみを覚えることができる。時間を忘れていつまでも眺めていられるような青だ。

そんな広いソラにポツンと朱く光っている物体が「タイヨウ」だという。

「タイヨウはね、誰に頼まれたわけでもないのに、ただ一人、世界を照らしているの。何千年も、何万年も、ただ一人で」

吐息が漏れたような小さな声で彼女は呟いた。もし、タイヨウとして生まれていたら孤独で仕方ないだろう。誰かに感謝されるでもなく、労いの言葉をかけられることもない。痛いほど眩しく輝く物体を見て、寂しさを覚えた。

そして、世界にはたくさんの生き物が住んでいる。数え切れないほど、たくさんの生き物が。その中で、このシャボン玉を作り出したモノはニンゲンという生き物らしい。

「ほらっ見て、あそこで大きな男のニンゲンと小さな女のニンゲンがいるでしょ?あれがニンゲンという生き物よ」

彼女はシャボン玉の中から外の世界を指差す。その表情には、どこか羨ましさと切なさを感じることができた。彼女の人差し指の先には二人のニンゲンがいる。大きい方が父親という種類のニンゲンで、小さい方が娘という種類のニンゲンだという。小さな娘が楽しそうに走り回っている姿がシャボン玉越しにぼんやりと見える。父親もそんな娘を追いかけている。

「幸せのかたち」

ゆっくりと噛みしめるように彼女は呟いた。大切なものをそっと、一つひとつ丁寧に扱うような声だった。

「しあわせって何ですか?」

私にはわからないことが多い。

「幸せというのはね、限りあるようで、限りないもの。限りないようで、限りあるもの」

「限りあるようで限りなく、限りないようで限りある?」

「そう、あなたにはまだしっかりと理解することができないかもしれない。幸せを見つけることは簡単なようで難しいことなの。なぜなら、幸せは目に見えないものだから。視覚で感じるものではないから」

「それでは、どうすればそれを感じることができるのですか?」

彼女は右手を自分の胸にそっと押し当てた。そして、人差し指で自分の胸を指差す。トントン、トントンというリズムで指を胸に押し当てる。彼女は私の目を見ながら指を押し当てる。私は彼女を見つめ返す。彼女の鼓動が聞こえる気がする。私は彼女の答えに耳を澄ます。

「幸せを感じるには自分の中の水脈を辿っていけばいいの。心が落ち着いたり、晴れやかになったことはあるでしょう?そんな経験を足がかりに辿っていけば、いつかその水源にたどり着くわ。その時、あなたは初めて幸せの意味を知ることができるの」

「しあわせの意味」

私の言葉に彼女は黙って頷き返した。

私は外の世界に視線を移す。娘と父親が見える。私は彼らの表情を見たいと思う。幸せを、幸せの意味をこの目で確かめたいと願う。しかし、どれだけ目を凝らしても彼らの表情を見ることは叶わない。シャボン玉の揺らめく虹模様がフィルターとなり、外の世界を濁している。

私にはわからないことが多い。けれど、今、私が見ている景色は幸せそのものなのだろうと感じる。なぜかはわからない。それはきっと、理屈では説明できないものだ。説明はできないけれど理解はできる。二人のニンゲンという生き物を見ていると、幸せという感情が新鮮な湧き水のようにポコポコと私の中に流れてくる。


シャボン玉はひらひら、光る。

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彼女は外の世界を見ている。愛おしいものを見つめるように。羨むように。私にはその表情の意味がわからなかった。おそらく、ニンゲンのことが好きなのだろうと思った。彼女はニンゲンについて話し続けた。

「ニンゲンには様々な色があるの。白や黒や黄色と言った色が」

「いろ?」

「そう、猫や鳥にも様々な色があるようにニンゲンにも色がある。でもその色は災いの種になる。彼らは色が違うだけで争ったりするの。自分の色が正しいと虐げ、時には虐げられる。面白い生き物よね。中身はみんな赤色なのに」

白、黒、黄、そして、赤。外はカラフルな世界だと思った。


「ニンゲンはね、自分のことが大好きな生き物なの。彼らにとって「自分」という存在は絶対的なもの。それが侵されようものならどんな手段も厭わない。そんな生き物なの」

「彼らにはどんな手段があるのですか?」

「そうね、まず、自分の考えが否定されれば声を上げて罵り合うわ。「自分が正しいのだ」と。それに、自分を守るためなら嘘をつき、他者を陥れる。「私が正しいのだ」と。彼らは自分自身が正義のヒーローであり、同時に、救いようのない大悪党なの」

「ずいぶん卑怯な生き物なんですね」

彼女は私の言葉に頷いてみせた。しっかりとした頷きには、きっと言葉にならない思いが込められている。

彼女の言葉には冷たい確信が備わっている。そんな話を聞かされると、私の中でニンゲンを遠ざける意識が芽生え始めた。灰色で生気を感じさせない芽だ。この芽は一体どんな花を咲かせるのだろう。そして、どんな実をつけてしまうのだろう。この芽がすくすくと育った先に、私は何を見ることになるのだろう。

シャボン玉の向こう側では、相変わらず「父親」と「娘」が走り回っている。笑顔で明るい姿の裏側には、きっと大悪党が隠れているんだ。きっと彼らは争いながら生きていく。自分の色を守るために、他の色を許すことなく生きていく。醜い生き物。幸せそうだと思っていた自分が馬鹿らしくなる。

しかし、一つの疑問が私を包み込む。私が彼らをみて抱いた、あの幸せという感情は嘘だったのだろうか。嘘だとしたら誰がついた嘘なのだろう。私だろうか。彼女だろうか。それともシャボン玉越しに生きるニンゲンたちだろうか。視線を外の世界から彼女へと戻す。その表情にはもとの温かみが戻っている。答えはきっと彼女が教えてくれる。


シャボン玉はぷつぷつ、浮かぶ。

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「そう、ニンゲンは自己中心的で卑怯な生き物。しかし、ごく稀に自分以外のニンゲンを愛せるニンゲンがいるの」

「たとえ色が違くても?」

「色が違くても」

ゆっくりとした彼女の反復には、力強さを感じる。

「損得などお構いなしに、愛を与えるニンゲンがいるの。並みのニンゲンたちには、彼らは失っているようにしか見えないでしょう。しかし、彼らは愛を与えることで喜びという養分を得ているの。そして、この養分こそがニンゲンをニンゲン足らしめるものなの」

「ようぶん?」

「そう、養分」

私は養分について考える。その養分が人を育てる。養分で育った芽はどんな葉をつけ、どんな色の花を咲かせるだろう。実はどんな味がするだろう。私は愛で育った花の匂いを嗅ぎたい。きっと、柔らかな甘い香りがする。私は愛で育まれた実を食べて見たい。きっと、控えめでやさしい味がする。


「自分しか愛せないニンゲンがいる一方で、愛を振りまいて生きているニンゲンもいる。ニンゲンは卑しく、悲しく、傲慢で、儚い。それでいて愛おしい生き物なの。いま、私たちが見ているニンゲンはどうやら後者の生き物のようね。ほら、あんなにお互いを愛し合っている」

シャボン玉の内側から、外の世界が見える。大小二人のニンゲンは、仲睦まじく抱き合っている。

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「ニンゲンは、シャボン玉のようなものかもしれないわね」

「いろんな色があるからですか?」

彼女は左右に首を振った。

「浮かんで、光って、消えるものだから」

「うかんで、ひかって、きえる」

私は彼女の言葉を丁寧に反復する。

「シャボン玉って自由気ままに浮かんでるじゃない。浮かんでいる間はとても綺麗に光っている。時には強い太陽の光で鮮やかさが増すこともある。でも、最後には割れてしまう。まるでそこに存在したことが嘘だったかのように跡形もなく消えてしまう。ニンゲンも同じだと思うの。自分の意思とは関係のないところで産み落とされる。それからは人を傷つけたり、幸せにしたりしながら、自由気ままに生きていく。でも、そんな時間も長くは続かない。最後には死が彼らを迎えにくる。綺麗さっぱり世界から去っていくの」

「じゃあ、本当はニンゲンには黒も白も黄色もないのではないでしょうか?」

「どうして?」

「ニンゲンがシャボン玉のような生き物なら、こんな風にカラフルなものだと思うんです。彼らはいろんな色を抱えながら、混ざり合いながら生きている。彼らの中にはたくさんの色がある。赤も青も緑も黄色も紫もある。そして、その一つ一つの色が調和を保つように、そこにある。そのようにしてニンゲンはできている。シャボン玉だって、一色なら美しくはない。ニンゲンは様々な色が混じり合っているから美しい。そんなカラフルな生き物だと思うんです」

彼女は私の話を聞き終えると、満足そうな笑みを浮かべながら呟いた。

「いい答えね」




シャボン玉はくわくわ、揺れる。

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彼女が一通り話し終わると、長い沈黙が訪れた。幸せに満ちた沈黙だった。彼女の表情には清々しさを感じることができる。私は答えを知ることができた。シャボン玉は二人の満足感で包まれている。

「私はあなたに似ていると思います」

「なぜそう思うの?」

「あなたの言うことが理解できるから」

「それは嬉しいわ」

彼女と話している時間は楽しいものだった。まるで失われていたピースがはまっていくような感覚がある。

「あなたの言葉には愛を感じます。言葉から想いがとめどなく溢れているようです。想いは熱を帯びていて、その温度が私を内から包み込んでいくようです」

「もちろん」

彼女は微笑んでいる。相変わらず温かな笑みがそこにある。私は彼女の愛が欲しくてたまらない。

「もっと色んなことを教えてください。もっと世界の話をしてください。ニンゲンについて教えてください。私はもっとあなたと話がしたい」

私の言葉が熱を帯び始める。

「どうしてあなたはそんなにニンゲンのことを知っているんですか?どうして愛を知っているんですか?どうしてそんな笑みを私に向けてくれるのですか?あなたは誰なんですか?」

彼女は首を左右に振る。

「欲張ってはいけないわ、リナ。それはこれからあなたが自分で見つけていくモノなの」


「リ..ナ...?」


彼女がゆっくりと近づいてくる。一歩一歩踏みしめるように。彼女が踏み出すたびに、地面が小刻みに揺れる。踏み出すたびに揺れはだんだんと大きくなる。彼女が私の目の前に立った時、シャボン玉の世界はぐわんぐわんと歪み始める。世界の色が次々に変わっていく。赤、青、黄、緑、紫とスピード感を持って変化していく。同時に私の鼓動も早くなる。彼女は私のことをリナと呼んだ。リナとはなんのことだろうか。誰のことだろうか。私はなんなのだろうか。


「さあ、そろそろ、割れるよ」

「わ、れる?」

「そう、割れるの。残念だけど、もう終わるの」

「終わるって、なんですか?」

「シャボン玉は割れる運命にあるの。綺麗な時間は、長くは続かない」

私は信じない。私はもっと彼女と話さなければならない。もっと多くのことを教わらなければならない。彼女と同じ時間を過ごさなければならない。彼女の温かさに触れ続けなければならない。「リナ」と言う言葉の意味を知らなければならない。

「リナ、あなたは外の世界に戻らなければならない」

「わたしはそとのせかいにもどらなければならない?」

彼女は黙って頷く。相変わらず、私が欲しくてたまらない笑顔がそこにある。しかし、その笑顔は今までの笑顔とは違っている。一滴の水分が彼女の笑顔を彩っている。一滴、また一滴と彼女の笑顔を染めていく。今までで一番美しい微笑みだった。

「リナ、最後によく聞いて。ずっとこのことを伝えたかったの。外の世界は綺麗な世界じゃない。このシャボン玉の中のように煌めいているだけではいられないの。15歳のあなたにはこれからきっと、辛く苦しいことがあるでしょう。汚いものと向き合わなければならない時間もあるでしょう。誰かの身勝手な正義に打ちのめされることさえあるでしょう。それでもあなたはニンゲンとして生きていかなければならないの。でも大丈夫。あなたは愛の意味を知っている。愛の養分を活力として生きることができる。そして、誰よりもあなたを愛している人があなたのそばにいる。だから恐れないで。目を逸らさないで。強く生きて」

彼女の涙が、私の中に染み込んでくる。その涙の成分が、私の全身に潤いを与えていく。彼女は私を理解してくれている。私は彼女を理解することができる。愛の養分で満ちたその水分は、私の体を一通り巡り、再び私の瞼から外の世界に落ちていく。シャボン玉の世界に落ちていく。涙は虹色の地面に落ち、ゆらゆらと光る。何粒も何粒も虹色に光る。


「大丈夫。別れることより、出会ったことに意味があるのよ」

虹色の世界で、彼女は私をそっと抱きしめる。私は彼女の温度を肌に感じることができる。豊かな色彩を感じさせる温かさがそこにある。

「愛してる」

彼女はそう言って、私の額にやさしくキスをした。

愛情と潤いに満ちたキスだった。


「さよなら、お母さん」


彼女の胸の中で呟いた。その瞬間

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「パンッ」

爽やかな音を立てて、世界が壊れた。

私は真っ逆さまに落ちていく。荒々しく流れる風の中を泳いでいくように落ちていく。背中に涼しさと爽やかさを感じることができる。私はニンゲンのいる世界に向かって落ちていく。目の前には雲ひとつない青空が広がっている。真水に絵の具を垂らしたような真っ青な濃い空だ。その端っこに燦々と寂しく光る太陽が見える。私はその光に温かさを感じることができる。光はどこかあの笑顔を思わせる。切なく、幸せそうに私に向けられた、あの笑みを。


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3月の公園は、春めいていた。桜の蕾は膨らみ、所々で花が咲き始めている。咲いている花たちは顔を出すのが早すぎたと、バツが悪そうに花弁を広げている。公園は自然の豊かさで満たされている。木々や花々が、春の訪れを喜ぶ匂いがする。青々と生い茂る芝生は太陽の光に照らされ、キラキラと光っている。まるで生い茂る彼ら一人一人が主人公であるように。

春めく公園に、二人のニンゲンがいる。大きい方が父親と言う生き物で、小さい方が娘という生き物だ。3歳の娘は父親の大きな背中ですやすやと眠っている。父親は時折、娘の顔に目をやる。幸せそうに寝ている姿を見て、笑みを浮かべる。その表情には温度を感じることができた。親が子を思うときに発する、あの愛に満ちた温かさである。彼は娘の寝顔に声をかける。

「たくさん走り回ったから一気に疲れちゃったね」

父親は空を見上げる。悔しいくらいに真っ青な空がそこにある。視界の端に孤独に輝く太陽を捉える。彼は太陽の光に思いを馳せる。そこに大切な人の笑顔を重ねる。光の温かさを感じ、瞼の端に波が押し寄せてくる。じんわりと、ゆっくりと波は押し寄せ、彼の二つの瞼を潤いで満たしていく。

「ぱぱあ...」

彼の背中で娘が目を覚ました。彼は急いで感情という海に高い堤防を築く。そして水分を服の袖でふき取る。彼は強くあろうとしていた。娘の前では涙を見せないことを心に決めていたのだ。

「おっリナ、目さめたの?どうする?まだ遊ぶ?」

「うん、あそぶう。あのね、ぱぱ。リナね、しゃぼんだまのゆめをみてたの。きらきらしてね、きれいだったよ。だからね、リナねぱぱとしゃぼんだましたーい」

「いいなあ、リナ。パパもシャボン玉の夢見たいなあ」

そう言いながら、父親はリナを背中から下ろした。カバンからおもちゃのシャボン玉セットを取り出し、片方を娘に差し出す。

「わーい!しゃぼんだましよーー!」

リナははしゃぎながら芝生を駆けていく。満足するまで走り回ると、シャボン玉液に専用の吹き棒を浸す。十分に液を浸し、吹き棒を口に加える。フーッと強く息を吐く。リナの爽やかな息が吹き棒の管を勢いよく通り過ぎる。その瞬間、大小さまざまなシャボン玉が現れる。

「パパー!みてー!いっぱいー!しゃぼんだま!」

父親は幸せそうに娘を見守っている。その時には、すでに涙の波は遠く彼方へ過ぎ去っていた。

「綺麗だねー!もっとたくさん作って見せて!」

「うん!わかったー!」

リナは次から次へとシャボン玉を生み出していく。七色に光るシャボン玉がどんどんリナの周りを包み込んでいく。シャボン玉は太陽の日差しでその光を強めていく。風の向くまま自由に漂い、空へと流れていく。リナはシャボン玉を満足げな笑みを浮かべて見つめている。太陽に似た笑みだ。

「ぱぱー!リナおっきいシャボンだまつくりたい!」

「ゆっくり、ゆっくり、やさしく吹いてごらん」

「うん!」

リナは父親に言われた通り、ゆっくりと吹き棒に息を吹き込んだ。焦らず、慎重に、大きくなれと願いながら長く息を吐いた。すると、今までにみたことがないほど大きなシャボン玉が目の前に浮かんだ。

「おおーリナ!すごいねー!でかいの作れたねー!」

父親の賞賛をよそに、リナは大きなシャボン玉を見つめていた。表面を緩やかに流れる色彩を目で追った。どこまでもどこまでも流れていく虹色の川を泳いでいくように、そこにある色彩を目に焼き付けた。彼女はシャボン玉の中を見つめていた。目玉焼きのようにまん丸とした自分の瞳が写った。目をこらすとシャボン玉の中に二つの小さな泡のようなものが浮かんでいるように見えた。小さな小さな二つのシャボン玉だ。小さなシャボン玉たちは、ぷかぷかと確かにそこに浮かんでいる。大きなシャボン玉に包まれながら光り輝いている。リナはその風景を見つめ続けた。長い間黙って見つめ続けた。一つのシャボン玉がもう一つのシャボン玉にくっついた。まるで仲睦まじく寄り添うように。その瞬間、大きなシャボン玉は割れた。「パンッ」と爽やかな音が、リナには確かに聞こえていた。

「あー割れちゃったねー。じゃあ今度はお父さんがもっと大きいの作ってみようかなー!」

3歳の少女に父親の声は届いていなかった。リナは黙ってシャボン玉が浮かんでいた空を見つめている。大きな、大きなシャボン玉が割れた。世界が壊れた。その世界からニンゲンの世界へと、一粒の雫が落ちた。その大きな泡の中から落ちた一粒の水滴を、リナは見逃さなかった。

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