海雲は魚を運んで唸り 風雲が青く胸を透かす 山林も同じく霞を払い 翠の腕に陽を抱き込む
価値観というものは、やり取りするものでなし、まいて押し付けるものではない。 それは、疑って初めて仕上がるものであると思う。 植え付けられたまま疑ってもみずに抱えているようなものは、ただの呪いに過ぎないのはあるまいか。
つまには、松岡茉優さんから告白されたら申し訳ないが松岡茉優さんを選ぶ、と言ってあり、了解を得ている。 つまも同じようなことを言ってたが、なんだったか忘れた。夢みたいなことを言ってたので。
腐らじと張せば、梁、将に破れんとす 破れじと動かざれば、根、やおら腐らんとす なんぞ張せず、なんぞ動かざる、病みぬるかな精神
お笑いモンスター明石家さんまさんは「笑いは緊張と緩和だ」といわれた。 ここで、私自身がお笑いについて考えたことを書いておきたい。 私は、笑いのキッカケのひとつに「潜在的な共通認識の突然の表面化」というものがあると思う。 それも、認識しているようでしていないような微妙な認識の表面化だ。 Twitterなどで見られる「〇〇に親殺されたんか?」という語句も、私のいうキッカケに分類される。 「このひと、やけに〇〇に対して恨みを持っているな」という、常々頭にあるものでもなく
自分が自分として生きていくことの、なんと不幸なことか。皆が右側を歩く中、ひとり逆であることのなんと心許ないことか。 もはや遺伝子がそれを恐るるがごとく、私を慄かしむる恐怖! 孤独!背は冷え、耳は熱くなり、筋肉は、内臓はギユッと収縮し、石のようである。そして粘ついた汗が出る。 それだというのに、なんたること!私は人と同じである事を何より嫌っているではないか! どこまでも我儘な俺よ。エゴよ。馬鹿め!お前はなんと浅ましいやつだ! ああ染まりたい。人と同じでいたい。ああ嫌だ、
道化を演じるのは、嗤われるのを恐れるが為なのです。知らぬところで嗤われるより、構えて迎えることを選ぶのです。 それは自己欺瞞という薄氷を舞台とする如かるも、家畜に紛れて瓦と列するよりは、ずっとずっと好いのです。
なに!なんだって!眠たくて仕事ができない? よしわかった、明日にしよう!今日はゆっくりやすむといい! なに!なんだって!ゲームが発売された! きみ、仕事をしている場合かね!すぐ取りかかりなさい! きみ、頑張っているね。よいこシールをあげよう
僕は、今の自分がいっとう好きだ。今が精神的に最も成長してゐる時点だからだ。 過去が恐い。付け加えれば過去の未熟さが恐い。共感性に欠けてゐた頃が。人を傷つけていることに無自覚だつた頃が恐ろしい(かう言ふと、あたかも現在の成熟しきつている事を強調するかのやうだが、言はずもがなそんな事はない)。 現在も、幼い頃の経験を思い出しては身悶える。恥の多い人生を送つてきたものだ。ついでに漫画のセリフを引用すれば、「恐怖とは過去からやつてくる」。僕の場合とは文脈を異にするけれども、妙にし
地方官吏となりて早や二年過ぎけり。 書生の身にありしは、世に出ではいかばかりか愉しきことあらんと慕ふ心地しけるが、何の事は無し。徒に二歳をぞ過ぐしにけり。 世の人、人の行いをもあれとこれと論うなり。などはかく。何故に己が賢しき正しきを、人にて。 二歳を過ぎて我の世に学ぶこと、人を見ず、人を論わず、この二つばかりなり。 もとより、この二つばかりなるを他の所為にはせむずるなり。嗚呼、この年の、ややも明るくならんことを。