「聖なる犯罪者」(ヤン・コマサ、2019)

今年の映画初め。
新宿武蔵野館。何年ぶりだろうか。
密回避のためか、待合所の座席がたくさんあって(ディスタンス確保のため一席ずつの空き)、宣伝ポップや宣伝記事や予告の映像がガヤガヤしていて、記憶していた武蔵野館よりも”昔ながらの映画館”感が増していた。
意図的にそうしているのか。


「聖なる犯罪者」。
司祭版西部劇。

主人公とヒロインが初めて会話するシーンでのやりとり。
「どこから来たの?」
「どこから来たかは重要じゃない。重要なのはどこへ向かうかだ」

これは、西部劇におけるガンマンの思考回路そのものである。どこからともなく町に現れ、悪党をやっつけて、どこへともなく去っていく。
「聖なる犯罪者」の主人公は西部劇のガンマンであり、ウルトラマンであり、かぐや姫であり、E.T.であり、横道世之介である。どこかから来て、何かをもたらし、どこかへ消える。

上記の会話。明らかに「この映画は西部劇ですよ」ということを表明している。そうである以上、主人公は必ず町を去るはずである。しかも何かを成し遂げたあとに。それがガンマンが必ず通る道だからである。
そう思って見ていると、主人公は町に(些細であれ)変化をもたらし、そして去っていくのである。この映画の監督は、確信犯的に”西部劇”を撮っている。

西部劇型のプロットにおいて、主人公は「異物(=よそ者)」である。誰からも共感されえないし、自身の心情を誰にも理解してもらえない。理解されてしまうと彼は「異物」ではなくなるため、たやすく誰かに理解されるようなシナリオには絶対にならない。理解されない主人公は空洞化した主人公、すなわち操り人形であり、物語自体を大局的に見た場合におけるマクガフィンそのものと化す。つまり、主人公は物語を進行させるためだけの存在なのである。

ちなみに今作の場合、主人公の出自から印象付けられる虚構性と、劇中で知ることになる秘密を保持したことそのものが、彼を「異物」たらしめる要因として機能している。
また、何かを為している(人をひっぱたく、何かを見てリアクションをする、とか)途中あるいはその手前で強引にカッティングされる黒沢清的編集により、主人公の行動の意味や意図が読みづらくなっていることも、「異物」化に貢献している。

「異物」であるからこそ、町に巣食う問題に切り込んでいけたわけである。町の住民と同じ側に立つ者であれば、市長の言うとおり、掘り返す必要がないのであるから。

終盤、主人公は祭壇にて服を脱ぎ、彼自身の虚構性を文字どおり公に晒す。虚構性=空洞人形=マクガフィンを目にしたことで、2人の人物に変化が起こる。1人はヒロインの母親。村八分状態だった未亡人を教会に招き入れる。
もう1人はヒロイン。町を去る。「重要なのはどこへ向かうか」との言葉どおりに。

古今東西、「異物」こそが事態を動かし、こねくり回すものである。

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