「ノースマン 導かれし復讐者」(ロバート・エガース、2022)

来年の公開に先駆けて、東京国際映画祭で見てきた。

副題と予告編から察するに、「ライトハウス」(2021)の偏執的異様さと、「復讐」劇というある種シンプルなプロットがどう合わさるのかということを想像(期待)していたが、おそらくそう想像していたからこそ、むしろ割と王道な作りであったように感じた。
平たく言えば、「ライトハウス」より数段"わかりやすく"なっていた。

今作の製作はフォーカス・フィーチャーズ(≒ユニバーサル・ピクチャーズ)(海外配給はユニバーサル・ピクチャーズ)であり、勝手な推測だがこうしたビッグスタジオから相当に指摘があったのではと思われる、「もっとわかりやすく」と。

それが最も顕著に出ていたと思えたのは、夢(妄想)と現実の棲み分け方だ。さっきのは夢のシーンだったんだな、という解釈に至れるための説明的描写の多さ。たしかに「ライトハウス」でも「これは明らかに夢(あるいは妄想)のシーンだろう」と思える作り方はあった。しかし、巷にはそもそも夢というテイなのか現実というテイなのかすら曖昧、という作風の映画が数多あることは言わずもがなである。「これは明らかに夢(あるいは妄想)」と思えるという時点で、わりかし寓意的側面の強いスタイル、つまりある程度「わかりやすさ」のあるスタイルがあったと言えると思う。

さて、「ノースマン」において、「わかりやすさ」の濃度は「ライトハウス」よりも完全に増している。夢(あるいは妄想)に何かしらの意味が、それもただ唯一の一通りの解釈しか許さぬ揺るぎない意味が、常に付随している。

主人公がヴァルキュリーに運ばれているシーンのあと、温泉にて目を覚ました主人公に対しアニャ・テイラー=ジョイが「私はヴァルキュリーではないけれど云々」と話しかけるカットが入る。このセリフによって、「さっきのシーンは夢(あるいは妄想)で、アニャをヴァルキュリーに見立てました、というシーンだったんだな」というただ一通りの"正解"の解釈を誘導している。

偏見を承知で書くと、おそらくA24製作の映画ならこのようなセリフは入れない。入れなくともわかる人はわかるし、わからない人はそのまま放っておくだろうし、というよりそもそも「このシーンをわかってもらうこと」をそのシーン自体の目的には決して据えないだろうという予想がつくからだ。勝手な偏見だが。


上映後、映画ジャーナリストの宇野維正さんが登壇され、この映画が現代的であるということについて仰っていた。
個人的にも、同じくこの映画は現代的であると感じたが、氏の仰っていた「奴隷描写」にというよりはむしろ、主人公の描かれ方に現代性を感じた。

終盤、主人公が実は存在そのものを望まれていない我が子であったことを、母親であるニコール・キッドマンから告げられるシーンがある。ニコール・キッドマンはまた、北欧神話的な、寓話的な主人公の行動原理を「戯事」と言ってのけ、目を覚ませというようなことを言う。これはもはや、それまで見てきた主人公の活劇の「メタ化」である。主人公はもとより、観客をも突然突き放すセリフである。観客も主人公と一体となり、その活劇に"乗って"いたのであるから。

もしこの物語をクレス・バング演じるフィヨルニル視点から見た場合、それはそれで何の匙加減も添加物も要らずして"映画"として成立可能である点に注目すべきである(主人公の父であるオーヴァンディル王が人格者とは言い切れなかったという設定もその成立可能性を少なからず後押しする)。その視点において、本作の主人公のアムレートは、怨恨ゆえに突如として現れた筋肉ムキムキの殺人鬼である。

ここまで突き放された観客は、否が応でも「主人公のやってることって何だ…?」と、それまでの筋書きを反芻せざるを得ない。
この、観客をも巻き込むアウトサイド感が、個人的に現代的であると映った。

「シックス・デイ」(ロジャー・スポティスウッド、2000)で主人公のシュワちゃんがクローン人間であると発覚し、そもそも自分こそが余計な存在だったという事実を突きつけられる展開が作られたのが22年前。しかし、突きつけられたとて、観客はシュワちゃんにすっかり乗りきれた。「シュワちゃんの存在意義って何だ…?」というところまで考える必要がなかったからだ。むしろ、映画鑑賞中に映画という乗り物から観客を突然降ろさせるような"悪手"を踏むわけがないじゃないか、というのが当時の空気感だったろう。

最近の映画は、あえて観客を降ろしてみせる映画が増えたと思う。特にA24が関わる映画だ。「今あなたが見ているこの画面は、嘘なんです」としきりに訴えるのである。無理矢理言語化するなら、「自省的な映画」が増えたように思う。
「ノースマン」もその例に漏れないだろう。


上記の宇野氏は「カメラ目線でセンターの真正面ショットでこちらに話しかけるような、見得を切るような撮影」の多さについて言及しており、それを聞いてなるほどたしかにそうだったなと思ったが、鑑賞中に自分が感じたのはむしろ「横移動」のカメラワークの多さだ。「横」という、運動の最適な見せ方たる構図を、特にアクションシーンにおいてふんだんに使っていたろう。

序盤の長回しのアクションシーンなど、横移動に加えて、奥から馬に乗った敵が来るのを迎え撃つという動きをも絡めており、「横と奥」ですらある。見ながら、構図の作り方としては「オールド・ボーイ」(パク・チャヌク、2004)のあの横移動アクションを超えたと思った。
また、特に前半においてアリ・アスター的ウィップパンショットがいくつかあるが、なぜそれが印象に残ったかというと、荘厳っぽい、寓話っぽい、大仰っぽい世界観からはどうにも導き出しにくい素早いパンショットが急に差し込まれたからだ。カメラ自体が「これは活劇だ」と言っている。

ロシア編となり、「数年後」という字幕が出た後の川辺から始まるショットを刮目すべきである。川辺からカメラが前進しつつ、その川の上を船が左から右へ横切る。カメラが川まで到達したその瞬間右へ猛烈にパンし、そのままカメラごと文字通り船に"乗って"しまうのである。そしてまた前進し、大人へ成長した主人公へ近付いていく。
おそらくパンしたタイミングでカッティングし、編集で特殊加工により繋ぎ合わせたのではないかと予想するが、そうではなくて本当に一連の長回しで撮ったのだとしたら、どうやって撮ったのか…?

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