私の「奏法」遍歴

(旧サイトの「オンラインレッスン」のコラム記事のアーカイブです。2017-03-24の記事です。)

ここには、大変恥ずかしながら、そしておそらく誰も関心のない事ながら(笑)、私自身の「奏法」遍歴を徒然と記してみたいと思います。

私の、いつどのような吹き方をしていて、どのようなアプローチをしていて、どんな事を考えていたか、それにより何ができて何ができなかったか、の経過。無駄な長文です。完全なる個人談ですので、一般化や普遍化は不適な内容です。

1.小学生時代

私は小学4年生の終わり頃に、学校の金管バンドにてトランペット(コルネット)を始めました。
初めは、数週間だったでしょうか、しばらく音が出なかった記憶とそれを国語の作文(か詩)の題材として書いた記憶がありますが、当然ながら「奏法」的なことは考えるはずもなくただ吹いている、という普通の(?)小学生でした。

ただ、もともと歯の噛み合わせとしては下の歯(顎)が引っ込んでいることもあり、上唇が下唇にかぶさる感じになっていて、そのままの方がとりあえず吹きやすいのだけどそれはなんだか良くないのかなぁ、高い音が出ないのはそれが悪いのかなぁ、という何となくの自覚はあったように思います。

音域は、高いソがやっと。部活自体はたくさん練習する部でしたから、朝7時からの朝練、昼休みの自主練、放課後練習、夏休みなども連日練習、と頑張っていました。練習は、小学生ながらたくさんしました。それでも、高いソがやっと。周りにはハイBも出る同級生や後輩がいました。

2.中学生時代:「ファーカス本」との出会いと、「粘膜奏法」

小学校で始めたトランペットを、中学校でも吹奏楽部で続けました。そして1年生か2年生のころ、あの「ファーカス本」に出会うことになりました。フィリップ・ファーカス著『金管楽器を吹く人のために』です。当時、2ヶ月に1回程度だったか、少し離れた大きな街の楽器店に行き、貯めたお小遣いでCDを購入する(そのほとんどはトランペットのソリストのCDか吹奏楽…というマニアックな中学生)というのが楽しみでしたが、そこでたまたま目にして購入したこの本。

今思えば中学生の文章理解力にはかなりの限りがありましたが、当時の私にはとても興味深く、何度も読み返しながら、書かれていることを練習しました。

当時の私は、特に高音に難を感じていて、小学校から吹いているにも関わらず、変わらず高いソくらいが限界でした。そこで、この本を勉強することで解決ができるのではないかと、中学生ながらに考えていたのでした(のちにファーカス氏が教授を務めていたインディアナ大学に自分が留学することになり、ファーカス氏本人のサインの書かれた原書を図書館で見ることになるとは知る由もありませんでしたが…!)。

下顎を前に出して上下の歯と唇の前後関係を揃え、口の周りの筋肉の使い方を書かれている通りに練習し、「パッカー」と「スマイル」のバランスをとる練習をし、「金管奏者の顔」になるように鏡を見て毎日練習しました。そして、音の高さに応じてアパチュアの大きさを変えるという手法をとりました。

それによって、少しは音域が広がったと思います。中学3年の夏の吹奏楽コンクールでは上の実音Asまで使われている曲(グリエール『青銅の騎士』の編曲版。半音下げられている編曲)を演奏しましたが、それは無事に演奏できました。言い換えれば、それ以上の音にはまだ難があったわけです。当然ながら、周りにはハイBやそれ以上を普通に吹ける同級生や後輩が何人もいました。

さらに、自覚無しにいつの間にか、いつからそうなっていったのかは定かではありませんが、上唇の内側の粘膜部分をめくり出してマウスピースに当てて吹く、所謂「粘膜奏法」になっており、とりあえずの演奏はできるかもしれないものの、持久力を始め様々な問題を自分では感じていました。

がしかし、中2のソロコンクールでは千葉県一位、中3の夏の吹奏楽コンクールではファーストを吹き東関東大会まで進む、という成績だけからすれば、とりあえずの音は出ていたと言えます。吹き方に問題がありながらも(そしてそれを心のどこかで自覚していながらも)、根性でとりあえずの音は出していたのです。これは…健康的ではありませんね。

3.高校生時代:0からのやり直し

それまでトランペットを誰かに師事したという事はありませんでしたが、高校入学の直前から、最初の師のもとで本格的に学ぶこととなりました。

そして、「粘膜奏法」になっていた私は、めでたくゼロからやり直す事となったのでした。「アンブシュアを変える」というやつです。このプロセスを踏む時にもれなく特典として付いてくる、音が出なくなる、というのはもちろん私にも適用されました。この特典は特にキャンペーン中でなくても、一般にはけっこう長い期間(短くて数ヶ月、長くて年単位)にわたり続くものです。

それまでの感覚とは全く違うことになりますから、初めのうちは音自体がほとんど出ない、そしてしばらくして1オクターブがやっと、そして高いミがやっと、高いソがやっと、という感じで、それまで出せていた音を一旦失ってから、時間がかかってまた徐々に出せるようになっていく、というプロセスでした。

部活はオーケストラ部に入っていましたから、そこで吹く曲は何とかこなさなければなりませんでした。精神的にも大変な時期ではありました。部活の時間だけでは練習が足りないと思い、家に楽器を持ち帰り練習をし、でも全く思うように音は出ないので、悔しく、一人で泣き、時に絶望し、無理なのか、向いていないのか、と毎日のように思い、でも諦められず…そんな繰り返しの毎日だったのを、今でもよく覚えています。そもそも音が思うように出ないのですから…。

とにかく忍耐強く毎日を過ごし、2年ほど(!)した時にとりあえず安定的に音が出るようになってはいきました。高校の部活の最後の大きな本番は、定期演奏会でしたが、チャイコフスキーの交響曲第4番を演奏しました。冒頭の上のAsが本当に怖くて怖くて、合奏では緊張で手や顔が震え、何度も外し(というか音がそもそも出なかったり)、でも本番は何とかやり切った、そんな感じでした。

音域的には、ハイBやハイCが無理やり押し込んでやっと、そんな感じだったでしょうか。また、呼吸については、取り組みをすればするほど悩みが増えていく、謎が深まっていく、そして何より、吹きにくくなる、という迷路に入り込んでいました。

また、アンブシュアや呼吸を意識的にコントロールする、ということを吹き方や練習の軸にしていましたから、それまでなかった、本番での過度の緊張と身体の震えが、ある時(確か高一の秋)から発生し、その後無くなる事はありませんでした。

4.大学時代:アンドレ・アンリとの出会いと転換

その後、大学は、東京芸大を現役と一浪との2回受験し、失敗。二浪目はこれ以上は親に申し訳なく、一般大学の受験勉強だけをし、慶應大学の文学部に入ることになりました。

大学時代は、音楽の道には蓋をし、視野を広げ、新たな道を見つけるつもりでした。文学部の中にある教育学専攻に籍を置きました。

しかし大学2年か3年の時に、夏にアンドレ・アンリのアカデミー(トランペットキャンプ)が開かれることを知り、こんな機会はまたとないと、(もちろん一般大学生は僕だけでみな音大生でしたが、)参加することにしたのでした。
そこでは、朝のウォームアップから、曲のレッスンやメンタルな側面まで、アンドレ・アンリの演奏の背後にあるものを、普通の1時間のレッスンでは知り得ない範囲で、垣間見る事ができました。

アンドレとの出会いは、僕の中では大きな転換点です。

それまでの私には、恥ずかしながら、いわゆる「リラックスして吹く」という考え方は、存在すらしていませんでした。筋力をつければつけるほど、今できないこともできるようになるはずだ、出ない高音も出るようになるはずだ、持久力もつくはずだ、何かが足りないからもっと足さなければならないのだ、そう信じて疑っていませんでした。練習の全てはその方向性の中にありました。

そんな誤解から転換する事ができたのは、彼の指導と演奏と論理性(とユーモア)のおかげでした。

リラックスして吹くということはどんなことか、無駄なストレスなく音を出すということはどんなことか、それによってこそ実現可能になること、そうでなければ出せない音質や可能にならない技術範囲、そういうことに、彼の演奏そのものと指導のクリアさと論理性が、気づかせてくれたのでした。

もちろん、それまで約10年にわたって身体の固まる吹き方をし続け、そのバランスによってそこそこの音を出してきた身体の感覚は、すぐに変わるものではありませんでした。しかし、この転換がなければ、今の私はないとはっきり言うことができます。

5.「姿勢」「身体の使い方」のささやき:懸命にメソッドへ救いを求める

いわゆる「リラックス」という事がカギである事を考えた私は、そこから派生して、「姿勢」や「身体の使い方」が大事だ、という考え方を知ることになりました。
「正しい姿勢」で吹く事によって、もっと効率的に吹ける。「身体の使い方」を変える事によって、もっと効率的に吹ける。それによって、今できない事もできるようになる。そう考えたわけです。

新しい事を知る、新たな方法を試す、そういった事は、知的好奇心も刺激され、自分に新たな可能性を見ているような気持ちにさせられ、充実感のあるものでした。
声楽のものも含めて、姿勢や呼吸に関する本をいくつも読みました。「身体の使い方」に関する本もいくつも読みましたし実際にレッスンにも通いました。トランペットや金管楽器、声楽のみならず、メンタルなことも含めて、いわゆる様々な「メソッド」に救いを求めたのでした。本当に色々調べ、読み、試しました。

しかしながら、しばらくすると新たな疑問が生まれてくるのです。「これは果たして本当に理にかなったことをやっているのだろうか…?その時は良くなった気がするものの、結局出来る事の範囲はあまり変わらないし、むしろ不自由になる事が出て、それを払拭しきれない…。いや、でも姿勢や身体の使い方は影響しているはずだとは思う…。どうしたものか…。」「あっちをコントロールしてうまくいくとこっちが変になる…。あっちをこうしながら同時にこっちはこうするのか…でもそうするとまた他のところが…。どうしたらうまくいくのだろう…。」「音は出やすくなっても、音楽的な演奏とは別物になってしまう…。」の連続、などなど。一言で言えば、ゴールのない迷路です。

6.『アーノルド・ジェイコブはかく語りき』との出会い:さらなる転換

そうこうして迷いながらも試行錯誤を続けていく中で、パイパーズ誌の連載として取り上げられていた、『アーノルド・ジェイコブスはかく語りき』の翻訳記事に出会うことになりました(連載は後に一冊の別冊にまとめられ、それを購入しました)。

これまた恥ずかしながら、ジェイコブスの存在すら知らなかった私は、ある意味色メガネを通さずに文章を読み進める事ができたかもしれません。最初はなかなか理解できない部分も多々ありました。が、何度も何度も何度も何度も(!)読み返し理解を進めるうちに、それまでの疑問が少しずつクリアになっていくのでした。

頭の中の音がいかに演奏の仕方(身体の状態)と関連するのか、練習とはどんなプロセスなのか、スキルを習得するとはどういうことなのか、一度作ってしまった悪い癖を変えていくというのはどういうプロセスを経ることなのか、大きな呼吸はなぜ重要なのか、唇はどんな役割を果たし頭の中とどう繋がるのか、唇と息との関係性とはどんなものなのか、演奏とは何なのか、その他本当にたくさん、それまで私が疑問として持っていた事をこれほどまでに矛盾なくクリアにしていってくれたものはありません。

とりわけ、感覚フィードバックの有無と意識的コントロールの可否についての知見は、「姿勢」「身体の使い方」という一見正しく、救いとなるように見える方法論からの呪縛を解いてくれました。

例えば、それまでの私は「肋骨をうまくコントロールして広げれば、うまく息が吸える」と考えていましたし、それをトレーニングしていましたが、それは、人間の感覚フィードバックのあり方(自分自身で感覚として状態を感じとり判断してコントロールできるかどうか)と演奏における認知と身体運動の関係からすれば、実は理にかなっていないという事を教えてくれたのです。意識的にコントロールできる事だと思い込み、そうしようとする幻想から解き放ってくれたのです。実は不自由と限界をもたらすことになる「奏法」「メソッド」が流布していることが説いてあるのです。また、仮に直接的コントロールができたとしても、それが音楽演奏のプロセス(音楽的意図→身体の運動)の中で機能しない場合があること、さらに言えばそれが練習の取り組み方としても不適であること、そんなことを教えてくれるわけです。

ジェイコブスの教えとの出会いは、アンドレ・アンリとの出会いによる転換に続くさらなる転換となりました。

7.インディアナ大学留学時代:転換の確信の始まり

その後運よく、アメリカの音楽大学の(自分で書くのは大変馬鹿げていますが)名門のひとつ、インディアナ大学ジェイコブス音楽院に留学できることになりました。人生何があるかわかりません…。

図らずして、インディアナ大学では、ジェイコブスの過去のレクチャー動画を金管の学生全員で観る機会が年に何度かのシリーズ企画としてありました。また、教授陣には、トランペットであれトロンボーンであれ、ジェイコブスの教えを実際に受けた方が多く、実際にジェイコブスの教えが現場に浸透していることを私は肌で感じました。

自分自身の練習や演奏としては、不安定な時期もありましたが、それまでに日本でアンドレ・アンリに出会い、ジェイコブスの本に出会い、転換してきたことが、少しずつ身になっていく、そんな時間でした。

修了時には、試験の一つとして1時間弱のリサイタルがありましたが、休憩なくソロ曲を吹き続けリサイタルを終える、という事自体が、転換がなければ難しかっただろうと思います。学生の身分を活かして(笑)挑戦的なプログラムにし、プログ作曲トランペット協奏曲第2番を入れましたが、この曲は特に、吹くこと自体が困難であっただろうと思います。

留学の期間を通じて、転換が少しずつ確信へと変わりはじめていきました。ただ、未だにそれまで長く約15年にわたり自分に染み込ませてきた吹き方や考え方が全て綺麗に移り変わったかと言えば決してそうではなく、新たな良い状態とそれまでの習慣とが混じり合い、ある時は良く、ある時は悪い癖が顔を出し、その揺れ動く中で何とか自分を良い方向へ手繰り寄せながら進んでいく、そんな感じでした。

8.帰国以後:定着と可能性と、無知の知

留学を終え帰国後、もちろん探究は続きました。留学中の、毎週の個人レッスン(基礎、エチュード、オケスタ、曲を全て、毎週課題をこなしていく)、毎日の吹奏楽かオケ、金管アンサンブル、セクションのオケスタクラス、バロックトランペットのクラス、オーディション、その他、自分の調子や練習の進み具合がどうであれ日々こなさなければならない事に追われ続ける多忙さからは離れた落ち着いた状況の中で、改めて自分を見つめ直す時間となりました。

ただ自然に呼吸する、ただ真ん中のソをのばす、半音下がって(上がって)戻るだけの単純なスラー、そんな事に立ち戻り、そんな事だけを見つめ直す期間が続きました。それをせずして自分は先に行く事ができないとわかっていましたし、今吹けない難しい曲が吹けるようになるための大きな鍵はそういうところにあるだろうと思えるようになっていました。

しばらくの間、やる事は初心者に戻り(質は初心者ではありませんが)、徐々に徐々に難度を上げていく、という作業をし続けました。一定期間した後、ある程度定着し、前はどう頑張っても吹けなかったものが吹けるようになる、という経験が増えていきました。

また、昔の悪い癖が現れる頻度は少しずつ下がり、ほぼ無くなり、忘れていきましたし、巷にある、昔は真っ当に思えたいくつかの「奏法」論の限界も見えるようになっていきました。

さらに、練習中でも演奏中でも、それまでには見えていなかった景色が見えるようになっていきました。

それから数年が経ち、吹き方はすっかり新たなものに変わり、昔は吹けなかったものも吹けるようになってきて、定着とさらなる可能性を実感するに至るようになりました。

しかしながら、同時に見える事は、「無知の知」です。より深いところが見えるようになっていけばいくほど、実はまだ浅いところにいる事に気づかされるのです。自らの無知を知る事になるわけです。

わかってきたかと思えばまだまだ何もわかっていないという自覚に至るということを繰り返しながら、まだまだ進んでまいります……。

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