2.歌(音のイメージ、ソルフェージュ)

(旧サイトの「オンラインレッスン」記事のアーカイブです。2017-02-09の記事。)

Song

ここでは、Song and WindのSong(「歌」)の部分について、もう少し詳しくみていきましょう。

「歌」は、「自分が出したい音」「音を通して伝えたい事」「理想の音のイメージ」、のように言い換えができると思います。

音を出す全ての始まりは、この「歌」となります。

自分が頭の中に(心の中に)抱いている音のイメージや、音を通して伝えたいメッセージが全ての始まりとなり、ここが最も重要な部分であると言っても過言ではありません。

これからトランペットを練習していく中で、あるいは年単位で経験を積んでいく中で、いつも、この「歌」は磨かれていくべきものだと言えます。
自分の音が良くなるにつれて、また、素晴らしい演奏や芸術にふれるにつれて、それまで気づくことのできなかった音の違いに敏感になり、頭の中の「歌」の質も洗練されていくことでしょう。

私たちが幼児の時に、周囲の人々が話す言葉(の音)を聞き、それを自分の口で真似していくのと同じように、トランペットの音も、素晴らしい演奏家の音をたくさん聴き、それを頭の中のイメージの種として音のイメージを洗練させ、自分の音を出せるようにしていくものです。

また、楽譜に書かれている事を頭の中で「歌」に変換すること、そしてその「歌」を頭の中で鮮明に強く再生できる能力が、楽譜を見て演奏する上ではとても大事な要素となります。

この頭の中の「歌」の在りようによって、自分がどのように息を使うか、どのように身体が使われるか、が大きく影響されるのです。なぜ「聴く」ことや「耳を育てる」ことが大事なのか、それは、そこがスタートとなり様々な状態が決められていくからです。

より詳しく・・・

■「頭の中の音」からスタートする

「頭の中の音」とは、音を出す「前」に、自分の頭の中に存在している音・イメージ・ソルフェージュしてあること、です。

音のピッチ、音質、音色、音の形、大きさ…その他音の全ての要素が含まれる、音のイメージです。

音を出す時の身体的動作の源となるのは、頭の中の音であると言えます。

言い換えれば、音を出す際の身体的運動は、全てとは言い切れないでしょうが、かなり大きな割合で、頭の中の音によって規定されているはずです。

頭の中の音が変われば、それに伴って、身体の動きは変わってきます。

例えばウォームアップ時に、スムーズでストレスのない音をイメージしている人は、そのように身体も使われていくことになりますし、逆にそもそも音のイメージが窮屈で硬いものであれば、それに応じるように身体は使われていく(酷使されていく)でしょう。

また、金管楽器は、ピアノなどのように予め決まったピッチが楽器の中に用意されているわけではありませんから、これから出す音のピッチ(あるいは音と音との幅である「音程」)を正確に把握していることが必要です。特に音の跳躍で音が外れる時、多くの場合は身体的な問題以前に、音程を正確に頭の中で認識できていないことが原因であったりします。

優れた金管楽器教師たちが好んで生徒に声で歌わせるのは、発音原理にかなった、深い意味があるものと思います。

これらはごく一例にすぎませんが、このように、金管楽器の音の出し方は、頭の中の音からスタートしています。

■「頭の中の音」からスタートする VS 身体の使い方からスタートする(身体の使い方からスタートすることによる限界)

さらに、全ては頭の中の音からスタートすべきもう一つの理由は、それが実際の演奏や本番での演奏を助けるからです。

私たちが達成したいことは、あくまで、良い音楽演奏をすることです。さらに言えば、本番で聴衆と素晴らしい音楽体験を共有することです。決して、良い身体運動をすることではありませんし、「正しい奏法」をすることでも「正しい呼吸」や「正しいアンブシュアで吹く」ことでもありません。

私たち金管奏者が陥りがちなのは、「(身体のある部分を)こうすればこういう音が出る」という順序で音を出そうとしてしまう事です。例えば、「唇を○○すれば○○な音が出る」「お腹のここの筋肉をこう動かせば○○な音が出る」などというように。

これらは、一見(その場では一時的に、あるいはある条件下のみでは)うまくいく方法であると思われます。しかしながら、本当にそれで良い音楽演奏はできるのでしょうか。

もし、繊細で、柔軟で、自由で、心に抱く音を実現できて、限界を設けない演奏を求めるのであれば、「こうすればこういう音が出る」の順序で発音原理を捉える事には限界があると私は考えます。

例えば、「お腹のここを使えば大きな音が出る」というのは、ある限られた意味では(ある音量を出す、というだけの意味では)正しいかもしれません。しかし、実際の音楽表現という意味においては、必ずしも正しくはないのではないでしょうか。

「意識的にお腹の筋肉のある部分を使う」という事によって、果たして実際の演奏で必要な繊細なあるいは即時的な音量の変化をどれだけ適切に達成できるのでしょうか。

おそらく、「これくらいここに力を入れればこれくらいの音量」というようにして数段階の大雑把な音量設定は可能でしょう。しかし、実際の音楽演奏においてはラフな数段階の音量設定では対応できません。または、作為的な不自然な演奏にならざるを得ません。

■身体の「使い方」ではなく、「使われ方」

このように、身体の使い方ありきのとらえ方は、実は、自由な演奏を制限することになると私は考えます。

身体の「使い方」が先にあって、身体の「使い方」を操作することによって素晴らしい音楽演奏ができる、のではなくて、まず素晴らしい音が頭の中にあって、それを実現するために身体は適切に「使われる」ようにする、適切に「使われる」ように任せる、のが本来の順序なのではないでしょうか。

身体に関することは、いかに適切に「使われる」状態にするか、ということが肝要なのであり、「使い方」が先にあるのではない、と私は考えています。

我々の多くがしてしまっていることは、身体の「使い方」が間違っている、のではなくて、身体が適切に「使われる」のを妨げることをたくさんしてしまっていて、それに気づかずに、さらに余計な事を付け加えようとばかりしている、のではないでしょうか。

例えば、私たちは、歩く時、「今いる地点から別の地点へ移動する」という目的を達成することを求め、それによって、身体が倒れないように極めて複雑な身体のバランスを保ちながら足や腕やその他の身体の部分を適切に動かすことを実現します。

足や腕の動かし方が先にあって、歩く、のではありません。足や腕の動かし方(動かされ方)は、歩くという目的を達成しようとすることが先にあり、人間に備わっている統合的な身体運動を実現する能力を信頼しながら、極めて複雑な統合的身体動作の結果として表れるのではないでしょうか。

身体の操作が先にありき、の考え方では、結局のところ技術的な問題への本質的な解決に至らない、結局のところ本番での音楽的な演奏を生む統合的で複雑な身体動作を生むことはできない、のではないでしょうか。

■「頭の中の音」と身体動作との結びつき

しかしながら、実は、もう一つここで言及しておくべき側面があります。

それは、「頭の中の音」のせいで、むしろ音が出なくなっている場合もある、ということです。

ここまでに書かれている事と一見矛盾するような内容ですが、…矛盾はしていません。

「頭の中の音」と、「身体動作」は、トランペットの経験が増すにつれて、その結びつきが強まっていきます。

ある音のイメージを持つことと、ある身体動作とが、リンクしていくことになります。

この過程で起き得ることは、音のイメージと、誤った身体動作とが、結びついていってしまうことです。

例えば、高音に問題がある人の中には、高い音のイメージと、誤った身体動作(唇を締め付ける、など)とが結びついてしまっており、音のイメージを持つが故に、むしろその音が出しにくい身体動作が発動される、という状態になっている場合があります。

このように、「出したい音のイメージ」と「誤った身体動作」とが強く結びついている場合は、むしろ一度、音のイメージを捨てることが役に立ちます。誤った身体動作が発動される要因である音のイメージを、一度キャンセルするわけです。そして、一旦、身体動作へ意識を向け、丁寧に、何が起きているのか観察し、分析していくことから始め、身体動作を修正し、そしてそれを音のイメージと結びつける、という逆のプロセスをあえて経るようにします。

しかし重要なことは、これで終わってしまうと、それはまだ実際の演奏場面には不十分であろうということです。

この状態では、実際の演奏場面で、「この音の時は…唇のこの部分がこうじゃないといけないから、これをこう意識して…でそれがここと関係してるからこっちはこうで…」などと考えなくてはならない段階にあります。これでは音楽的な意図に集中する隙間もありませんから、本当に良い演奏ができるかは甚だ疑問です。

このようなことに陥らないために、一度身体動作が修正されそれが繰り返しの中で習慣化されてきたら、あくまで、音のイメージが先にあり、それによって適切な身体動作が発動される状態になる段階までを、練習として考えるべきだと私は考えます。

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