聖夜に受けた宣告

6月下旬から続けてきた仕事が、今日25日(金)で最終日を迎える。
おかげ様で現場からは惜しむ声を頂くが、上層部の考えで期間延長が行われないことになったので、仕方がない。
もう最後ということで、巡回している3つの現場それぞれでいろんな仕事を頼まれてしまい、今週はそれらに忙殺される日々が続いている。
世間はクリスマスイヴだと騒いでいるが、私には関係ない。

不本意にも現場を去らなければならない寂しさに加え、目下の仕事の忙しさ、次の仕事を決めなければならないプレッシャー、そして母の介護で、私の心も身体も少しずつ限界に近づいている。

私はいつも、夕方6時過ぎにデイサービスへ母を迎えに行き、その足で母を連れ買い物に出かけ、カフェやファストフードなどで一息ついてから家路に就く。そして、遅めの夕食を一緒に食べる。
昨日は、残業が発生することを見込んで、デイサービスへ迎えに行く時間をあらかじめ遅く設定。その間に、母には夕食を摂ってもらうようにしていた。

かくして、遅い時間にはなったものの、いつものように母をデイサービスへ迎えに行く。
最寄りのバス停まで向かって一緒に歩くが、どうも歩き方がおかしい。思うように足が前へ出ないのだ。
一昨日までは、そんなことはなかった。

ちょうどデイサービスの送迎車とすれ違い「乗っていきますか?」と声をかけられたが、「買い物があるから」と断る。
歩き続けてはみたものの、歩き方が変なままだ。

結局、デイサービスに電話を入れ、送迎車に家まで送ってもらうことにした。

車内でデイサービスの長から言われたことに、私は大きなショックを受けた。
「足腰がだいぶ弱っているし、もうそろそろ車椅子に乗ったほうがいいのではないか」

歩けない訳ではないが、歩くことで相当な体力を消費することになるので、外出の際は車椅子が良いと。

そうした提案は、最近も受けたことがあった。
商業施設へ行った際など、館内では車椅子で移動したほうがいいとのことで、それには私も同意していた。

しかし、今回は外出自体においての車椅子利用の勧めだ。
ケアマネージャーに連絡を取って、車椅子の貸し出しを申請したほうがいいとのこと。

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約10年前、母が認知症と診断された際に、私は独りで泣いていた。
とはいえ、その後は幾多の苦しみを経験しながら、少しずつ現実を受け入れていった。

でも、今回ばかりは重苦しい現実を突きつけられ、独りで泣いたところで辛さを乗り越えられるか自信がない。
現実を受け入れるのに、相当な時間がかかりそうだ。
今回も、独りで人知れず泣いた。

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思えば、社交的な性格ではなく恋人もいない私は、母と外出することが多かった。
感性や趣味など、私と気が合う部分が父と比べて多いのと、「私を産み育てた母を大事にしたい」という気持ちが強いからだ。いわゆるマザコン親子の関係性とは全く違う。

認知症の進行で会話が困難になった最近も、じゃれ合ったり手を握ったりするなどしてコミュニケーションをとっていた。
介護から解放されて独りになりたいときは別として、母と一緒に時間を過ごすことが当たり前だった。
私としては、母がそばにいてくれさえすれば良かった。

たしかに、90近い高齢者が(たとえ遠方ではなくても)日常的にあちこちを買い物のために出歩くなんて、普通はないだろう。
高齢者の介護としては型破りで異端なのは、自分でも自覚はしている。
それと、歩くことで消費する体力が年とともに大きくなるのも、頭ではわかっている。
歩く距離が長くならないよう、なるべくこまめに休憩を取ったりエレベーターを利用したりしている。

それでも、母との外出がもう叶わなくなったら……。
私としては、寂しさしかない。

もちろん、母に無理をさせて寿命を縮めてしまうのは、私としても本意ではない。
少しでも長生きしてほしいし、少しでも健康寿命が長くなってほしいと思う。

そういう気持ちと、「母との外出の機会を減らす」ということの間で、どうやってバランスをとっていくか。
その答えは、すぐには見つかりそうもない。

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