写真_2020-02-18_7_12_54

写真を撮るのではなく自分の眼で感じること

先日のとある撮影でのこと。
暗いうちに小高い山に登り、夜明けを待つ。刻々と表情が変化していくなか決定的瞬間を撮り漏らさぬよう粛々とシャッターを切ってゆく。
明るくなり始めてから日が昇るまで30分あまり、「夜明けのショータイム」はあっという間に終わった。
私は仕事として写真を撮っている、読者(クライアント)に最高に感動的なシーンを見てもらうべく、とにかく仕上がった写真がベストになるようカメラ操作に全神経を集中するので、じっくり自分の眼で見てそのときの感動を味わう余裕は正直あまりない。

私を案内して未明から一緒に山に登ってくれた現地のスタッフに、現場確認用に携行している単眼鏡(小さな望遠鏡)を手渡すと、彼はシャッターを切り続ける私の横で少年のように目を輝かせて純粋に見ることを楽しんでいた。誰かが心から感動して喜ぶ姿を見ているとこちらも嬉しくなる。

スマホカメラとSNSの普及により、最近では様々な場所で「見る」ことそっちのけで「撮る」姿をよく目にする。人は感動を自分以外の誰かと共有することによって満足感を得るのだそうで、そもそも写真を撮るという行為は「自分が見たものを誰かに見せたい」という人の本質に基づいている。スマホ+SNSはこの本質的な欲求を満たしてくれるが故にこれだけ人を魅了し止められなくさせてしまうのだろう。
しかし、せっかく「その場」に居るのだから自分自身の眼で「見る」ことをおろそかにするのは如何にももったいない。

良い写真でないと他者からイイね!を得られないから写真を撮るのに集中する、というのはいかがなものか? 気持ちは分かるが、せっかく今この瞬間ここに居る(生きている)のだから、写真は二の次にして「自分の眼で見る」ことを楽しむほうがずっと豊かだと私は思う。

写真は我々人間が見ている視覚を実はほんのわずかしか表現出来ていない。たとえば、朝陽が山の端から顔を出した瞬間の太陽のすぐ横で輝く雲のディテールなどは白く飛んでしまう。露出を変えたカットを合成してそのディテールを再現した写真をつくったとしても肉眼で感じるあの輝き感には遠く及ばない。

常に携帯しているスマホカメラのおかげでいつでも写真が撮れるようになり、それをSNSで共有することで容易に共感を得られるようになったのは決して悪いことではない。でもそのために我々一人一人が自分自身の眼で見て感じること、味わうことをおろそかにしているのではないか。
ヒトの眼は写真よりもはるかに豊かな映像を捉えているのだから、「見る」ことをもっと味わうべきだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?