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「風化」という言葉への違和感と、「忘れない」ことの意味

次の4月25日でJR福知山線脱線事故から19年になりますが、毎年4月が近くなってくると、慰霊式の案内が届いたり取材の依頼があったりで、いつもと少し違った気分になる時期です。事故当時35歳だった私は、54歳になりました。

当時は美術関係の編集デザインの仕事をする会社員でしたので、通勤のためにあの電車に乗っていたのですが、今は自営でフリーランスのデザイナーとして仕事をしており、今は電車の駅すら無い兵庫県の田舎町・多可町に住んでいます。
そのときに飼っていた犬のハロルドとシェリー、猫のコージィ、ニノ、シシィも老衰で看取りました。その後に迎え入れた、犬のルカ、アーニィ、モモ、クーも最期を看取り、結婚から30年間ずっと動物がいた我が家ですが、初めて動物がいない時間を過ごしています。

この事故によって、自分の生活だけでなく、モノの考え方や価値観が大きく変わりました。JR事故から6年目の3月に発生した東日本大震災は、被災した人たちはもちろんのこと、私のように離れた関西圏で生活をしている日本人にも大きな衝撃を与えました。人間の命や生活、価値観が一瞬にしてくつがえされるような出来事に、改めて自分たちが生きているこの世は無情なのだと思い知らされました。
そしてまた、今年の元旦には能登半島地震が発生し、今なお多くの方が苦しみの中で生きておられます。

こうした、多くの事件事故や災害によって被害に遭った人は、人間が決めた1年というサイクルの中でその日を改めて思い起こし(本当は発生した日は二度と戻っては来ないのですが)、今一度自分が生きている意味をみつめ直すのでしょう。
私は、このような大きな事故で生きるか死ぬかの境をくぐり抜けたような経験はそのときが初めてでしたが、最初の2年ぐらいは「思い出す…」というような生ぬるい次元とはほど遠く、毎日どころか、何をしているときでもずっと悲惨な事故現場の映像や音声、匂いなどがありありと目の前にあるような状態でした。まるで爆撃を受けて木っ端みじんに吹き飛ばされた戦場のように、たくさんの人が私の目の前で亡くなっていきました。

自分の体の後遺症のこともありましたので、通院しながら休み休み会社に通勤していましたが、いわゆる「事故の記憶」というような認識で客観的にこの事故のことを捉えることができるようになってきたのは、事故から3年目ぐらいからだったと思いますので、私がそれまで漠然と想像していた、事故の被害者像とは随分違っていました。
大きな事件事故の被害者が、1年目のインタビューで「もうそろそろ前を向いて歩かないと…」というコメントをしておられるのをときどき拝見しますが、あれは嘘です。1年目なんて状況は何も変わらず、むしろ次から次に発生してくる思いも寄らない状況に翻弄され、直後よりもむしろ大変な状況に巻き込まれて「落ち着いた」どころの話では無い状態でした。

我が家が最も大変だった時期は、事故直後よりも、むしろ事故後1年半〜3年目ぐらいのときでした。妻が病気になったこともありましたし、会社を辞めてフリーランスになったことでの貧乏生活も経験し、これまでの人生の中で最も苦しかった時期と言っても過言ではありません。当時、どうやってその状況を乗り越えてきたのか、あまりよく覚えていません。
その後、4年半目に事故調査委員会とJR西日本との情報漏洩事件があり、約1年半かけて国の検証作業に関わることになりました。

しかし、人間はどんな状況にも慣れていきますし、時間と共に忘れていきます。他のことで忙しくしていると、少なくともその時間は忘れるようになり、そして事故から10年が経過した頃には、多くの時間を忘れて過ごすようになりました。
以前は、事故現場の場面もありありと記憶しているような気になっていますが、おそらくは自分が書いた手記を頼りにした記憶や、取材のときに記者に繰り返ししゃべっている内容によって、後から補強された記憶による部分が多分にあるのではないかと感じています。

最初の頃は、自分の記憶が曖昧になっていくことに変な寂しさや許せなさのようなものがありましたが、10年目を境に、ようやく「忘れていいのだ…」と思えるようになりました。
そうは言っても、直接の当事者なので一生忘れることはありませんし、世間が忘れるというのとは意味合い的に大きな違いがあるのだと思いますが、私の中では事故の直接的な事柄を「忘れない」ということには、今はそれほど大きな意味を見出さなくなっています。
しかし、一緒に最期の乗車位置を探し、事故から1年半のときに自ら命を絶ってしまった遺族の女性のことは一生忘れないと思います。見なくていい写真や知らなくていい事実を、泣きながら遺族と共に探しまわって過ごした時間や、彼女が企画して我が家で開催してくれた私の妻の誕生日会など、彼女が最後に生きたかけがえのない時間や彼女の無念さ悔しさは忘れることは無いと思います。それこそ、彼女がこの世で苦悩し続けた最期の時間が無かったことになってしまいそうな気がしています。

事故後、メディアをはじめ、様々なところで「風化」や「風化防止」という言葉が使われてきましたが、私はその言葉が好きではありません。メディアだけでなく、被害者の方たちやJR西日本の皆さんも良く使う言葉ですが、私はこれまで一度も使ったことがなく、それを耳にするたびに違和感を覚えていました。
私にとって「忘れない」ということは「風化防止」という安易な言葉では語り得ない、残された遺族や生き残った「生きた人」そのものの苦悩や傷みであり、今となっては直接的な「事故体験」ではないのだと感じています。

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