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第一テモテ3章1節ー5節

「主のために働く者」
パウロは監督の条件についてあげます。監督とは点在する家の教会に責任を負う立場ですばらしい仕事なのです。その働きは具体的なものであって決して名誉職などではありません。従って何より大切なのは動機なのです。これは監督に限った話ではありません。主のためにもっと働きたいと願うすべてのクリスチャンに関わることでしょう。

ところが不思議なのです。具体的働きと言いながら、資質にあがっているのは能力には関係ない面ばかりです。一人の妻の夫とは当時は複数の結婚相手がいる風習があったからです。もてなすとは当時の宿屋がいかがわしい場所だったためです。それ以外にあがる条件も品性に関係します。それらは現代人の目にも常識的に思われることです。信仰に尖った行動や、常軌を逸した破天荒さは必要ないということです。

能力としてあがるものがただ一つだけあります。教える能力です。み言葉を語り、福音が教えられる能力です。説教は教会形成に必要で外せないことだからです。特に他宗教の影響の渦巻くエペソの町では福音が曲げられないように余計に教えは強調されましょう。但し、それ以外の部分が欠けていても目をつぶって多めに見てもいいことにはなりません。

特に問われるのが家庭でのあり方なのです。十分な威厳とは、偉そうな態度ではありません。威厳とは自身が神に従う結果、主から与えられるものなのです。人が過ごす時間の多くを家庭が占めます。日曜日の数時間の礼拝だけ敬虔に装ったとしても、家族の前ではごまかしがきかない。むしろ日々、いかに神に従っているかが、家庭の中で証の実として現れます。

教会とは決して一世代だけ続けばいい存在ではないのです。次の世代に代々継承される必要があります。この継続性こそが地域によき影響をもたらすのです。信仰継承はどの信仰者にとっても祈りでしょう。ましてや監督である者なら尚更、家庭のことに気を配るのです。監督に限りません。個々の信仰者が己を点検し成熟を目指す歩みでありますように。

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