エゼキエル書21章1節ー12節
「新しい世界へ」音声はこちらからお聞きになれます。
自分の立ち位置がどこで、どこに顔を向け、どこに向かっているのかを確かめることは大切です。神に南に顔を向け、預言せよと言われたエゼキエルも同じです。今、彼はバビロンにいます。バビロンからはるか南にある、ネゲブの森と呼ばれるエルサレムを向いています。神に見棄てられたと思われたバビロンの地の捕囚民。しかし、意外なことに火が点き、焼け落ちていくのは、自分たちこそ生き残った民だとうぬぼれているエルサレムの地でした。
神は世間から見棄てられたと思う者と、ともにおられます。世間が否定し、無視した者をむしろ用います。そこから語られる神の預言が、火をつけて、南から北まで炎がなめつくし、一度ついた火は誰も消せません。神は見棄てられたと思う者を選び、うぬぼれている者を退け、間違った価値観は焼き崩れ、新しい世界を生み出そうとしておられます。正義が宿る神の国の現れのため、教会は用いられ、火をつけていく。その働きにあなたも用いられます。
しかし、当のエルサレムの住民は悟ろうとしません。エゼキエルはたとえを語っているに過ぎないと言うのです。なにかのたとえだろう、現実のことではないだろうと信じようとしません。今も人は信じたくないことを拒み、信じたいことを信じるのです。だから神はほのめかしではなく、はっきりとストレートに神の審判の剣について語ります。言葉をのべるエゼキエルも、神の霊が注がれ、われを忘れる神秘的取り扱いの中、熱く力を増して語ります。
今も人は神の生み出す新しい価値観をなかなか信じられません。心を固くして今までの生き方にしがみついたままです。福音を伝え、証を語る者の困難がここにあるわけです。しかし、拒絶にあって心折れそうになる私たちを支えるのは神です。神がますます私たちに神の霊を注ぎ込み、神の霊で満たします。心を引き上げ、み言葉をもっと熱く、大胆に、語れるように助けます。み言葉の剣は働きをなし終えるまで鞘に納められることはないのです。
しかし、み言葉を語るエゼキエルは呻く者でもあるのです。彼を見る者がなぜそんなに呻くのですかと尋ねるほど苦悩します。私たちも新しい世界実現までは神の霊とともに呻くことが求められます。無痛で、無傷で、犠牲も負わずして神の国は来ない。しかし、その日が来る時、ひとのひざは水のようになる。つまり恐怖のあまり失禁し膝まで濡れるのです。神は人のありとあらゆる抵抗を打ち砕き、み言葉の前に屈するしかない日をもたらされます。
神を信じているのにこんなに嘆かないといけないのかと言ってはいけない。信仰があるのに、なぜこんなに苦しいのかと疑ってもいけない。預言者がそうであったように神の国を継ぐまでは神の民は多くの苦難を通らないといけません。神とともに苦労した者こそ、神とともに喜ぶこともできる者。証する本人ですら驚く神の偉大なみ言葉の力に圧倒する時が必ずきます。新しい世界へ。その時までどんな苦難にも抵抗にも逆風にも耐えてみせましょう。