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テモテの手紙第一5章1節ー2節

「家族とされて」
教会は神の家族と呼ばれます。あらゆる年齢層が集う礼拝ですから、個々にふさわしい具体的な配慮が求められます。パウロは老人を叱るなと戒めます。年若いテモテが軽んじられていたことが背景にあります。年配の信徒がパウロと比べて年下のテモテの欠点や未熟を批判するのです。その声を一喝するだけで済ませてはいけません。

むしろ勧めるのです。教え諭すのです。忍耐強く尊敬を込めて祝福を祈る。間違いは矯正できるように寄り添う態度です。感情的に売り言葉に買い言葉ではいけないのです。父親に対するように接するのです。一方、若い男性に対しては弟に接するように叱るよりも勧める必要があります。

女性に対しても同じです。年配の女性には母親に対するように接するのです。若い女性に対しては妹に対するように叱るよりは勧めるのです。混じりけのない心とは相手を性の対象としてみることが戒められているのです。

パウロは教会に集う者は神の家族だと告白します。赤の他人であった者がなぜ家族であり、兄弟姉妹と呼ばれるのでしょうか。それは勧めがなければ決してわかりません。だから勧めという語が繰り返されます。年配者であれ若者であれ、女性も男性もすべての神の民が教会ではなぜ家族なのかはみ言葉に聞かないと分からないのです。

学ぶだけでも十分ではありません。それに基づいたふさわしい言葉が、行動が、奉仕が魂への配慮となって現れるのを目指すのです。その時に神の家族である兄弟姉妹は初めて実態を伴うでしょう。信仰は神の家族との交わりの中において成熟していくもの。その証こそが自分もこの交わりに加わりたいと願う人を起こすことでしょう。

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