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第二ペテロ3章17節ー18節

「キリストにある成長」
私たちはペテロの第二の手紙の最後の部分を読んでいます。ペテロが最後に願っていることが信仰の成長であることがわかると思います。実は手紙の書き出しにも成長が勧められていましたが、改めてここで念が押されているわけです。なんのために成長が必要なのかと言うと、不道徳な者たちに唆されないようにするためだというのです。偽教師への警戒がここにはあるわけです。成長を止めてしまうなら、騙されかねないということです。

ところが、信仰において成長し続ける者は、間違った教えの誤りを見抜くことができるでしょう。その主張の何がどうおかしいのかを吟味し識別できるようになることでしょう。つまり信仰の成長は異なる教えに対する最大の防御策になるのだと教えられているわけです。間違った教えの存在がかえって信仰を成長させます。あらかじめ知っていることを何度も確かめることで、補強され、堅固な救いの足場を失うことを避けることができましょう。

ところで、ここで言う霊的な成長とは継続を意味する用法が用いられていることに注目したいのです。どこまでも成長し続けるのです。別の角度から言うと信仰生活には成長しようとしない危険もあるということなのでしょう。いつまでも霊的な幼児の状態にとどまっていることは良くないわけです。信仰生活とは絶えざる前進と進歩です。それなら自分はせいぜいこの程度でいいですなどと勝手に線を引く必要などどこにもないではありませんか。

それでは成長はどのようにして起こるのでしょうか。ひとつの要素は救い主イエスキリストの恵みです。恵みが豊かに与えられ続けることによって成長するのです。もっと言うならば、神の恵みが注がれる分野が広げられていくことを大胆に求めてもいいのです。私たちの弱い部分や、欠点や課題に、神の恵みが与えられて、変えられていくことを期待しようではありませんか。そのためには謙遜になって、恵みを求める者とさせて頂きたいのです。

もうひとつの大切な要素は、知識において成長することです。この場合の知識はイエス様に関する知識です。主がどういうお方か、主の御心とは何か、主の力がどれほど偉大であるかなどを深く知っていくことにおいて成長が起こるわけです。これは頭の中の知識の詰め込みというよりももっと深い意味なのです。主を体験的に知るということなのです。その結果、聖書に書いていることは自分にとっても真実だという証が増えていくことでしょう。

ところで成長することによってどうなっていくのかをペテロは教えてくれてもいるのです。イエスキリストの神が栄光をお受けになるのです。そもそも信仰者は神の栄光をあらわす者なのです。従って、私たちは個人としても教会全体としても神の栄光のために成長し続けたいものです。この恵みと知識に留まり続けるならば驚くような結果が伴うのだということに感謝しながら、ペテロの第二の手紙を読み終わることにしたいと思います。

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