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第二ペテロ3章3節-4節

「み言葉への信頼」
使徒ペテロは信仰を萎えさせる要因について述べてきました。原因のひとつはいつの時代も信仰をあざける者の存在があることです。一生懸命信仰をしている人を冷笑するのです。信仰に意味はないなどと言うのです。まるで斜めに構えて物を言うことを格好いいと勘違いしているのです。しかし、何か信念があっての高尚な話でもないのです。単に欲望の赴くままに生きているだけのことなので、たちが悪いと言えるでしょう。

今の時代も冷笑主義はあるでしょう。しかし純粋な者を冷たく笑うほど悪趣味な話はないのです。私たちも冷笑主義に陥ることのないように気を付けたいものです。むしろ信仰者は相手を建て上げることに力を注ぎます。目の前にいる人を慰め、力づけるために生きます。信仰とは傍観者であることに留まることはできません。むしろ当事者として全力で福音のために取り組むことが求められています。

ところで、当時、信仰者の間で問題になっていたのが再臨問題でした。いつまで経っても世の終わりがやってこないことにしびれを切らした一部の者が再臨などやってこない。そんな約束は無効だと言い出したのです。そういう主張に信仰者の一部も動揺し、なぜ再臨は来ないのだろうかと思い始めていたのです。とりもなおさずそれは主の審判を否定し、善悪の基準を相対化してしまう危険なことだったわけです。

それでは彼らのどこがどのように間違っていたのでしょうか。それはみ言葉の約束よりも自分の感覚や好き嫌いや経験値を優先してしまった点にあったと言えましょう。これだけ待っても世の終わりが来ないのだから、約束そのものが間違いだとでも言わんばかりです。そうではありません。信仰とは感覚や経験値以上にみ言葉の約束そのものに信頼を置くことだということをしっかりと覚えたいものなのです。

しかし、使徒ペテロはかえって終わりの時を見つめているのです。世の終わりが近い切迫感を伝えているわけです。その理由はこうでした。そもそも、み言葉を冷笑し間違った教えを信じる人々が出てくること自体が世の終わりの明らかなしるしではないかと言うものです。そもそも時代はイエスキリストの出現以来とうの昔に終わりの時代に突入しているのだという事実にしっかりと目を開きましょう。

気を付けて頂きたいのが、この世の終わりに関して不安を煽るような教えは決して健全なものとは言えないということです。世の終わりを過度に強調するのも、否定し、心配させるのも極端な間違いなのです。むしろ世の終わりとは私たちの希望が実現する時です。再臨の主が訪れて下さり、善悪の基準がはっきりし、すべての不安が解消される時です。このことをしっかりと覚えて、互いに心を奮い立たせ合いたいのです。

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