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エゼキエル書15章1節ー8節

「枝となる時」
エゼキエルが注目するのは植物でもぶどうです。実でも果汁でもなく木の枝そのものです。そもそもぶどうは折れやすく、弱く、曲がっていて木材には向いていません。加工しても小さな木釘にさえできない役に立たない木。これがイスラエルの象徴です。

だからこそ不思議なのです。このような地味で目立たない木が豊かな実をつける事実が。私たちも決して立派な人間ではなかった。地味で平凡で時に人よりも劣るところのある存在でしかない者。そのような者が神に選ばれ、神に救われ、多くの実を結ぶ者へと変えられていくのだとしたなら、それは自分の実力などであるはずがない。人生のあの場面、この場面で神の手入れが入り、自分の実力以上の力で生きる者とされた恵みを覚えたいのです。

ぶどうの木は実をつけてこそ値打ちがある。しかし、もし葉を茂らせ、枝ぶりだけは立派でも実をひとつも結んでいないなら。福音書が描く受難週の主のふるまいを思い出します。ひとつも実をつけていないエルサレム郊外のイチジクの木は枯れていく運命でしかなかった。ここにやがて滅びへと向かうエルサレムが仄めかされていることを読みすごすわけにはいきません。役に立たない木はやがて枯れ、薪にされて燃やされてしまうのです。

実際、枝の両端は火がついて焦げています。イスラエルの北王国は軍事大国アッシリアに滅ぼされました。残された南王国もバビロンに蹂躙され、多くの者が連行されていきました。それなのに生きのびた者は豪語しています。自分たちは神の目に特別な存在なのだ。だから災いから免れたのだと全く危機感がないのです。冗談ではありません。ただでさえ無益なぶどうの木が、両端が焼けて残されたところで、一体、なんの役に立つというのでしょうか。

私たちも気をつけないといけないのです。一見、葉を茂らせている人生かもしれない。見た目は枝ぶりも良く繁栄しているように見える生活。けれども、信仰的にはなにひとつとして実も結べていない。霊的にはうつろで成長出来ていない。それなのに自分はひとかどの人物でもあるかのようにうぬぼれている場合もないわけではありません。主と主の言葉につながり、とどまり、主の深い交わりに歩まないなら、そこにはいのちはないのです。

主との深い交わり。旧約聖書ではそれを神のみ顔を拝すると表現します。顔を仰ぐほどの近い距離。清い神がみ顔を向ける時、何が起こるのでしょう。自分の罪の姿が映し出されるのです。今まで気付かなかった、悟らなかった自分の罪の現実にはっとさせられます。罪がいかに共同体を荒廃させてきたかを示され、神の前に悔い改めることができるようになるのです。私たちは神に指摘されない以上、自分の罪も見えないほど愚かな者なのです。

しかし、主が顔を向けられ、近づかれると言うなら、イエス様が人の姿をとられたこと時ほど神が人間社会に近づいたことはないはずです。目に見えないはずの神が見える姿となり、交わり、食事をとり、人として歩まれたのですから。最後に主は釘づけにされ、十字架にあげられ、棄てられました。この十字架を仰ぐ時、誰も自分の罪を悟らずにはおれません。悔い改めから始まる回復がある。この方の枝となってこの方のいのちから多くの実を結べ。

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