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エゼキエル1章1ー3節

「ここから始まる」
不透明。これが30歳を迎えたエゼキエルの境遇でした。意に染まぬ異国の地バビロンで。目に見える風景はと言えば、泥だらけの廃墟。ここで何をすればいいのかもわからない。どう生きるかも答えが出ない。深く言えば自分が何者であるかさえ確かではない。なぜでしょう。神がわからなくなっているのです。なぜ神はエルサレムが戦争に敗れることを許されたのか。なぜ神は自分を異国に連行するままになさったのか。彼の深い呻吟を聞くのです。

私たちの人生もどこか宙ぶらりんです。なにか確固たるものがあるわけでもなく、確信もなく。時に夢破れ、時に悪いことが重なり。したいこともわからず、神につまずくことも正直ある。今まで信じてきた神への理解と現実がかけ離れ過ぎて。しかし、そういう幻滅の時でした。天が開かれたのは。あなたの信じてきた神理解は狭すぎると言わんかとするように。主は答えをお持ちです。どんな人生の荒波の中にもあなたが主にとって何者であるかを。

しかし、自分が何者かはすぐにわかるとは限りません。エホヤキン王がバビロンに捕え移されてから5年の月日が、エゼキエルのバビロン移住と同じ時期だとすると、少なくともエゼキエルは自分の使命を告げられるのに5年は主を待ち望んだことになるでしょう。短くはない時間です。信仰とは待つことなのです。祈り続けたことでしょう。待ち望みの中で、忍耐は与えられ、事態が動かない神の沈黙の中で神への信頼は培われていくのですから。

待つことの苦手な私たちは、待っていられないとばかりに焦って動き回ります。自分の思いを通そうと誰かに働きかけたりします。しかし心の中は落ち着かない気持ちでいっぱいで何かに駆り立てられています。どれだけ美しい言葉で飾ろうとしても、実は神を信頼しようとしていないのです。その結果、よけいに糸がもつれ、人間関係がこじれることもないわけではありません。神を待てない、待つ気がない者は決して本気で祈ろうともしないでしょう。

一方、神に用いられる人は、祈りだけでなく、み言葉によっても備えています。なぜ捕囚民たちはケバル川のほとりに住んだのでしょうか。大量の水がいるからです。エルサレム神殿もない、いまわしい土地である異国に定住するには、聖書の戒めに基づいて、毎日水で身を清める必要があったのです。理想通りでない厳しい環境の中であろうとなんとかしてみ言葉に生きようとした神への忠実さがここにはあります。

私たちの環境も天国でもなければ清くもない。こんな場所からは一日も早く出ていきたいと心は呻きます。しかし、それだけが選択肢ではない。日々、み言葉に従い、み言葉によって整えられていく時に、やがてわかるでしょう。この環境にも自分がするべきことがあるのだと。神には自分をここに置かれただけの意味があるのだと。聖霊の流れの中に自らが清められていく時に、逃避だけが人生ではないと前向きに生きられるようになるでしょう。

それにしても一生、自分の環境を嘆き、呪う人もいれば、厳しい自分の環境にも生きる意味を見出す者もいる。違いはどこにあるのか。主の手が臨んでいるかどうかです。神に用いられる人はひとり隠されたところで人生のどこかで神秘的とも言える神との出会いを体験して心燃やされていくのです。時に砕かれ、ぺちゃんこにされ、自我を潰されて。その体験が一生を左右する。私たちはエゼキエルになれるでしょうか。主の手が臨む備えはどうですか。

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