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テモテの手紙第一5章19節ー22節

「成熟を目指して」
パウロは長老が教会で訴えられることを想定して、その際の注意を促します。ふたりか三人の証人がいないなら、受理してはいけないとあるのです。複数の証人の規定は旧約聖書の戒めを踏まえています。長老への訴えは真実かどうかは慎重に見極めないといけないことなのです。中には身に覚えのないことで批判されたり、み言葉に基づいて指導したことで逆恨みをかうこともありえる話です。エペソ教会を巡る諸問題は複雑なのですから尚更です。

考えてみると主イエスを筆頭に、聖書に出てくる奉仕者で批判の矢面に立たされなかった者がひとりでもいたでしょうか。長老に限らず、クリスチャンはどこかから批判される覚悟も引き受ける覚悟があったほうがいいのでしょう。教会は口車に乗せられて、批判を助長させるようなことがあってはなりません。むしろ誰かへの不当な批判が回って来た時は広めるよりも自分のところで止めるくらいの気持ちで相手を守ったほうがいいことは多々あります。

罪を犯している者とは文脈上、長老のことを指します。この場合、罪とは一般的なことではありません。具体的には長老が福音ではない誤った教えを信じ、語る過ちは見過ごすわけにはいかないということなのでしょう。悪影響が懸念されるからです。なぜ、人の前で責めないといけないのか。これは何が福音であって、何が福音でないかを教会全体で共有するためなのです。教会は何が福音でないかを見極めるだけの成熟さが求められているのです。

しかし、ここに誘惑が働きます。あの人とは親しい関係だから手心を加えて多めに見ようという思いです。あるいは、あの人とは性格的に反りが合わないから必要以上に手厳しく判断しようなどという人間的判断です。人間関係だけで人を偏り見るようなことが決してあってはいけないと釘を刺されているのです。そういう事態が起こらないように教会には教会規則が整備されています。この原則に従って判断することが大切なのです。

そもそもですが、長老を按手して働きにつかせようとするときに、安易に勤めに就かせてはいけないのです。なぜなら、教会にみ言葉を語る奉仕は責任の重いものなのですから、軽々しい按手は避けないといけないのです。軽々しい按手が偽教師を生む温床にもなるのです。慎重には慎重のうえで、吟味を重ねて任命することが求められています。ふさわしくない者を任命してしまったとなれば、任命した者にも責任が及ぶことになるからです。

今も献身者が不足しているからといって数合わせのように献身を安易に考える傾向は間違いなのです。それでは教会の益にはならないのです。み言葉が正しく語られる成熟さが必要です。また聞く側もみ言葉に素直に聞き従う成熟さが求められています。献身者はみ言葉が真実に語られる中から起こされるものなのですから。

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