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第二ペテロ3章11節-12節

「備えよ」
使徒ペテロは主の日が必ず来ることを告白するのです。それでは、やがて来るべきこの日に対してどのような備えをするべきなのでしょうか。前提となるのはその日には地にあるすべてのものは崩れ、焼かれてしまうことです。それなら、少なくとも消え去るものに執着する人生がいかに空しいものであるかをわきまえておく必要があることでしょう。それらのものが永続する満足を決して保証しないことに目を止め、そこに深入りしないことです。

それでは何を求めたらいいのかという話になります。ペテロは言います。聖なる信心深い生活を送るようにと。聖なるとは神の専属になるということです。神専用の人生として自分の生活をお捧げするのです。その中心となるのは信心深い生活です。敬虔と言う言葉ですが、これは礼拝にまつわる言葉です。礼拝を人生の中心に据え、礼拝者として歩み、礼拝によって生活が整えられ、いつでもどこでも神のご用に間に合うように整えておくのです。

もうひとつ言えるのは、主を待ち望む歩みとは決して受け身の生活ではないということです。何もしないで待つのではありません。もっと前向きなものであって、主の日が来るのを早めることにさえ繋がる生活が求められているのです。しかし、果たして人間に主の日を早めることなどできるのだろうかと疑問に思うかもしれません。この問いを解くカギは、主が一人も滅びることなく悔い改めを待ち望んでおられる点にあるのではないでしょうか。

従って、私たちが福音を伝え、多くの人が福音を聞いて信じれば信じるほど、それだけ終末が一歩ずつ近づいている証であると申し上げても過言ではないはずなのです。もっと言うならば、現代世界ほど福音が凄まじいスピードで広がっている時代もないことも確かではないでしょうか。まるで地球を一周するかのような速さで、この瞬間も世界中で福音は前進して救われている人がおられる事実をぜひ知って頂きたいと思うのです。

それは自分以外の誰かがすることだろう。自分には関係ありませんなどと傍観者のように見ているだけではすまないのです。私たちも必ず主のために何かのお役には立てることがあるからです。祈ること。奉仕すること。手足を動かすこと。神の国のために参与するのです。私たちの遣わされている地で主から任されていることがあるはずなのです。それなら主よ、わたしを用いて下さいとわが身を差し出していく。それこそが備えなのです。

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